2014年後期の朝ドラ『マッサン』。
それを遡ること実に24年前の1990年、スコットランド人女性と日本人男性の愛を描いたドラマがあったのをご存知でしょうか?
その名も『ジンジャー・ツリー 異国の女』(◆NHK名作選)。
二人の出会いの地は、日本でもスコットランドでもなく、清でした。
ヒロインが恋に落ちた日本人男性の将校モデルが柴五郎。
国際的にも注目を集め、小説やドラマで描かれた人物です。
それほどまでに名高い日本人がかつて存在していたのですが、現在ではほとんど注目されることもありません。
本稿では柴五郎の生涯をたどってみたいと思います。
もくじ
戦火に消えた柴五郎の家族と故郷
柴五郎は安政6年(1859年)、280石の会津藩士・柴佐多蔵の五男として生まれました。
誕生の6年前、嘉永6年(1853年)に黒船が来航。
幕末へ向け、時代が急激に動く中での生誕です。
五郎がまだ幼い文久2年(1862年)、会津藩は強引に「京都守護職」に任ぜられると、藩士の男性たちが上洛していく中、その留守を守る妻子は寂しく、不安な日々を送ることになるのでした。
まだ少年の五郎は、家族と使用人に囲まれ、平穏な日々を送っていました。
変わったことといえば、毛のない頭を見ると恐怖を感じて泣き出すことくらいです。おとなしい五郎を、母はじめ周囲の人々は可愛がって育てました。
諏訪神社のお祭り。
姉との喧嘩。
親の叱責。
そうした良き思い出が、五郎の胸に刻まれていきます。
そして慶応4年(1868年)秋、8月21日――。
「五郎、面川沢に行ってきっせ」
幼い彼に、母はそう促しました。
そこには山荘があり、旬の松茸、茸狩りや栗拾いが楽しめるのです。秋の味覚を楽しみにして、五郎は家を後にします。
この少し前、兄の四郎は母・ふじからこう告げられていました。
「四郎、にしは城さ行け。会津武士として、父上のもとでしっかり戦ってきっせ」
このときは涙をぬぐっていた母も、五郎には笑顔を見せていました。
山荘についた五郎は、幼いながらも胸騒ぎを覚えました。
家に戻ろうにも、城下町では人が殺到しているのです。山荘の前にも人だかりができ、激しく降りしきる雨の中、暗い顔で皆佇むばかりです。
そこへ大叔父がやって来て、五郎に告げました。
「柴家のおなごは立派な最期であった。足手まといになると城に行かず、自刃した。介錯して、火を放って来た……」
祖母・つね、享年81。
母・ふじ、享年50。
兄嫁・徳子、享年20。
姉・そい、享年19。
妹・さよ、享年7。
その話を聞いて、五郎は涙も出ないまま、気が遠くなって倒れてしまいます。
柴家の女性で生き延びたのは、次女・つま一人だけでした。
一家全滅の危機もある中、男児である五郎を助けようと、母は彼を送り出し、そして死を選んだのです。
会津若松城下では、柴家のような悲劇が多くありました。
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同年11月――。
会津若松開城後、山荘に潜んでいた五郎は百姓の身なりをして、家まで戻りました。
「鶴のようだ」とされていた城は、砲撃で見る影もなく崩れています。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用
灰と瓦礫の山と化した屋敷で、幼い五郎は気が遠くなり、座り込んでしまいます。
そんな五郎に、伯母は箸を渡しました。
家族の遺骨を拾わねばならないのです。紙袋に骨を入れながら、五郎は涙が止まりません。
この焼けてしまったものが、家族だなんて……。涙があとからあとからこぼれてくるのです。
藩首脳部や藩士たちが戦後処理に追われる中、五郎は会津の家で暮らし続けるしかありません。
柿の実を売り食いつなぐような日々が続きます。
寒い冬の日は、どうしても思い出してしまいます。
あたたかい服を着せてくれた、母の指のぬくもり。
母の膝で眠ったこと。もう二度と味わえぬ暖かさです。
明治2年(1869年)、ボロボロの姿のまま、藩士とその家族は東京の俘虜収容所へ連れて行かれました。
幼い五郎まで、配慮のないまま東京で過ごすほかないのです。
そこから釈放されても、会津藩士の苦難は続きます。
五郎は土佐藩士・毛利恭助吉盛の「学僕」とされました。
現在でいうところの、奨学生といったところでしょう。学びつつ、働くという身分……というのは名ばかりで、事実上の使用人でした。
提灯を捧げもつ。
馬の世話をする。
そうして働かせるのです。
ある日、五郎にとって屈辱的な出来事がありました。
料亭にお供していたところ、主人から来るように呼び出されたのです。
その場へ向かうと、酔っ払った主人の周りに何人もの芸妓がおり、三味線を抱えておりました。
「この小僧は会津の武士やか。母も姉妹も、自害して死にちゅう」
すると芸妓たちは、彼を取り巻いてまるで哀れな犬の子でも見るように、同情してくるのです。
五郎は悔しくて、悔しくて、涙をこらえていました。
母や姉妹の死を、宴会の話題にされるとは! 幼心に、悔しさが刻まれます。
幼い五郎にとって、明治維新は苦難の始まりでした。
斗南で生きることこそ、会津武士の戦
そんな会津藩士たちに、ある決定が届きます。
斗南藩に向かうべし――。
新天地での御家再興とされるこの命令に、藩士は従う他ありません。
決定まで、藩首脳部では様々な議論がありましたが、五郎のような少年には知るよしもない話です。
明治3年(1872年)5月半ば、会津よりさらに北で、「天子の領地だ」とされる場所へと、会津藩士たちは出立するのでした。
到着してしばらくの間は、貧しいながらも 困窮とまでは行かずに生きてはいけました。
問題は寒波到来以降です。
収穫もできず、かといって兵糧を買うにせよ金もない。
生活用品すらままならない中、餓死しないことだけが目標となる、辛い日々が続きます。会津に生きてきた彼らでも、その寒さは耐え難いものがありました。
蕨といった山菜をすりつぶす。
流れ着く海藻を薄い粥に入れる。
こうした粥は、オシメ粥と呼ばれました。
死んだ犬の肉を食べたこともあります。
五郎の回想では犬の肉はまずかったとありますが、これは後世の美化もあり、当時はごちそうだと思えたそうです。
栄養失調のため、毛髪が抜けるばかりか、脚気にもなりました。
このころの会津藩士は、斗南以外でも飢餓と誇りの板挟みにあったのです。
ここで餓死しては薩長の笑いもの、生きることこそ会津武士の戦――そんな父の言葉を五郎は書き記しています。
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明治3年(1873年)には、会津藩家老・萱野権兵衛の子である郡長正が、留学先の豊津藩で自殺しました。
食糧難をこぼす手紙を拾われたため、会津武士の誇りを取り戻すための死とされています。
後世の潤色も考えられますが、会津藩士の子弟が逆境にあり、飢えていたことは十分に考えられるのです。
政治と戦争は、子供まで巻き込み犠牲にしたのでした。
いざ上京
明治4年(1874年)、五郎は青森県給仕として出仕――。
そんな中、なんとかして上京し、学びたいと友人と考え始め、翌年、大蔵省の役人に「東京で学びたい」と訴えることにしました。
五郎はまだ十代前半ながら、冷たい目を明治政府に注いでいたことが窺えます。
県庁に出入りする役人たちとその妾が、花見だ芝居だと浮かれ騒ぎ、豪華な着物や袴を買い漁り、飲み食いしていたと記憶しているのです。
飢餓に苦しむ五郎たちにとって、彼らの腐敗は残酷なまでの格差でした。
とはいえ、非情なことばかりでもありません。
訴えを聞いた青森県大惨事・野田豁通は五郎に、東京にツテはあるのか?と尋ねます。
五郎は、兄・四郎や秋月悌次郎らの名前をあげ、必死で食らいつきました。
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訴えはようやく認められ、明治5年(1875年)、五郎は上京を果たします。
その後、ある会津の重要人物も上京します。
山川浩です。
斗南藩を移住先と決めたため、幾度となく殺害予告すらされた山川。
彼は砂鉄からの製鉄、缶詰製造といった奮闘をするものの、廃藩置県で無意味となりました。
上京し、文明開花にふれて、呆然とする五郎。
彼は山川家を頼りにするよう案内され、そこを訪れたのです。
山川邸には既に旧会津藩士が入り浸っていたものの、そこは断れません。山川家は困窮を見逃せないのです。
五郎を迎え入れ、一家の母・えんと常盤は、捨松の残していった着物を 仕立て直して彼に着せたのでした。後に大山捨松となる山川の妹は、アメリカ留学中でした。
薄紫に桃色で、どう見ても女物ではあります。どう見てもおかしいとはいえ、そのぬくもりとやさしさが五郎を包み込みます。
会津戦争以来、忘れていた安らぎがあったのでしょう。五郎はそのことを覚えています。
彼はしばらく、女物の着物に袴で過ごしたのでした。
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陸軍幼年少年隊への入学を果たす
働きながら生きる五郎。
そんな彼に、陸軍会計一等軍吏に就任した野田豁通がある話を持ってきました。
「陸軍幼年少年隊(のちの陸軍幼年学校)の募集試験を受けてみないか? 合格すれば陸軍士官だ。武士の子なれば、不服はないだろう」
五郎はこれだと食らいつき、必死で受験勉強に励みます。
山川家にこのことを告げると、二つ返事で承諾されたのでした。
しかし山川家も生活が苦しいのか。
この間に五郎が貯めていた13円50銭を借りております。
明治6年(1875年)、五郎は何度も何度も兵学寮を訪れ、合否を気にしていました。そして3月末、ついに合格だと結果がわかったのです。
雲の上を踏むような喜びでした。
これを聞いた山川家も、同じくらい喜びました。
浩は素早く行動します。
浩は五郎から借りた金を持ち、6~7円を使って軍服一式を揃えました。
幕末にロシアを訪れ、洋式軍服を着ていた浩です。ピンとくるものがあったのでしょう。山川家の皆は嬉し涙をこぼしていました。
野田豁通も、大喜びです。
「これでよか、これでよか」
よか、よか……そう繰り返す野田を、山川と並ぶ大恩人として、五郎は記憶しています。
陸軍人の道
陸軍人の道を歩み始めた五郎。
当時はナポレオン戦争の影響もあって、フランス式でした。
会津訛りのためかフランス語の発音は苦手であり、この科目はいつも悪い方でした。
辛いのはフランス語くらいでした。
食事の洋食。学友は まずい、不自由だとこぼしますが、五郎にとっては天国です。斗南の飢餓と比較すれば、それも当然でしょう。
夏休みは、どこにも行き場所がありません。
野田豁通の家で下僕として働いていたところ、ここに出入りするある書生に呼び出されました。
「きみは陸軍人になるために、学校に通っているのだろう。国を守る志がありながら、どうして下僕の真似をする? ここから出て行きなさい」
そう諭され、彼はその通りだと思い、有坂成章の家に下宿することにしたのでした。
五郎は、激動の陸軍初期を味わっていました。
級友よりも貧しく粗末で、学内では薩長土肥が目立つ構造です。
普仏戦争を受け、フランス式からプロイセン式に変わる制服と授業。
兄・四郎の病。
更には国内各地で、不穏な気配が感じられるようになります。
明治9年(1876年)秋からの不兵士族の反乱。
最後は、明治10年(1877年)の西南戦争でした。
このときは、兄・四郎が出征してゆきます。
会津武士たちは、これぞ薩摩への雪辱として、堂々と鹿児島を目指していたのでした。彼の恩人・山川浩も大活躍を遂げております。
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一期生は、この内戦で30名ほどが戦死を遂げました。
その熱気が伝染したのか。二期生と三期生で乱闘が起こるといった余波もありました。そして、この歳の暮、五郎は特科受験し、優秀な成績で合格します。
明治11年(1878年)には、大久保利通暗殺の報が五郎にも届きました。
西郷と大久保――。
薩摩が生んだ両雄にして「維新三傑」は非業の死を遂げたことになります。
明治維新の際に陰謀を企て、耳目を集めるために会津を血祭りにあげた。
いかに国家の柱石といえども、許せるわけもない。
自らの暴走、専横の報いをその命で償った。暴走の結果で、同情する気なぞ沸くはずもない。
非業の最期は当然の帰結だ――。
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それが五郎の思いでした。
若気の至りだからとこのことを反省するはずもない。のちに彼は、そうきっぱりと言い切っています。
とはいえ、彼の陸軍士官学校時代の親友には、薩摩出身の上原勇作もおります。薩摩出身者全員が嫌いというわけではありません。
明治12年(1879年)、五郎は陸軍砲兵少尉となりました。
故郷を血の海に沈めた両雄の死。
そして砲兵少尉任官をもって、五郎の人生には一区切りついたのです。
会津若松落城の折わずか8歳だった少年は、19歳の青年士官となったのでした。
卒業と同時に少尉になれるわけでもなく、優秀であったからこそ。
この歳、五郎は11年ぶりに会津に戻り、墓参をしたのでした。
明治15年(1882年)には、父が死去。
兄たちもそれぞれの道を進んでいます。
会津の兄弟は、彼らの道を模索していました。
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