西郷四郎

西郷四郎(左)と会津藩家老だった西郷頼母/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

満身創痍の会津藩に生まれた西郷四郎|軍人の夢敗れて伝説の柔道家となる

2024/12/21

日本の柔道界のレジェンドといえば、嘉納治五郎が有名です。

その門下に、彼しか使えないという幻の技を使いこなす、一人の男がいました。

西郷四郎――。

講道館四天王の一人でもあり、彗星の如く日本柔道界に現れたレジェンド。

大正11年(1922年)12月22日が命日である彼は、一体どのような人物だったのか?

その生涯を辿ってみましょう。

 


敗戦の会津に生まれた西郷四郎

慶応4年(1868)、会津若松城下。

会津戦争の最中、悲劇が起こりました。

会津戦争後に撮影された若松城/wikipediaより引用

会津藩家老・西郷頼母(たのも・近悳)の家で、頼母の老母にはじまり、妻、妹、幼い娘までもが、懐剣を握って自害を遂げたのです。

西軍の将は、血の海となった西郷邸に踏み込み、あまりのことに言葉を失いました。

そのとき、15才ほどの娘が、息も絶え絶えになりながらこう言いました。

「お味方ですか……? ならば介錯を……」

西軍の将は涙をこらえながら、娘にとどめを刺したと伝わります。

落城後、西郷頼母の元に残された家族は、幼い一人息子だけ。

西郷家にとって最後の子となった彼も、夭折してしまいます。

この西郷家に、後に養子として入る“少年”は、会津戦争の二年前に生誕していました。

 


猫の動きを真似するほどに俊敏

会津戦争において、藩士の志田貞二郎は【朱雀隊士】として越後口に出兵。

敗戦後、志田一家は斗南藩には移住せず、戦火で荒れ果てた会津若松を離れ、津川町に移住しました。

この町は現在新潟県にありますが、元は会津藩領です。

志田一家には、小柄ながらも気が強く活発な少年・四郎がいました。

のちの西郷四郎です。

西郷四郎/wikipediaより引用

彼は、家の仕事を手伝う合間に、妙なことをやり始めました。

猫というのは実に俊敏な動物です。

高い所から落ちても、空中でクルリと一回転して、見事に着地します。

ただしあまりに高い所から落とすと怪我をしますし、低すぎても回転が間に合わずこれまた怪我をします(実際に投げ落とす実験は絶対にしないでくださいね)。

そんな猫の真似を、四郎はやり始めたのです。

高いところから飛び降り、クルリと回って飛び降りる「猫の三寸返り」と呼ばれる動作。

ジャッキー・チェンが映画でやるような動きですね。

もっともこの猫の真似は伝説的なもので、史実かどうかはあやしいとされています。

猫のような俊敏さが少年の頃からあったということでしょう。17才の四郎は、明治15年(1882年)、友人のつてを頼って上京しました。

 

講道館に現れた謎の少年

友人に頼って上京した四郎。あまりに突発的な行動をするため、周囲も困惑しました。

このとき、四郎には大きな目的がありました。

「俺は“イクグン大将”になる!」

陸軍大将のこと。言葉が訛って「イクグン」に聞こえていたのでした。

当時の会津藩は、賊軍の首魁とみなされており、政界での出世ルートは閉ざされています。

出世しようと思えば、山川健次郎のような学者としてのルートか、山川浩柴五郎のような軍人ルートしかありません。

山川浩/wikipediaより引用

四郎は後者をめざしていたのです。

しかし、四郎はあまりに小柄。身長が五尺(153センチ)しかなく、どうしても士官学校には合格できません。

夢やぶれた四郎は、薄汚い格好でボサボサ頭のまま、ある日、講道館の門を叩きました。

応対に出た門人は、小柄な薄汚い子供がいるのを見て尋ねます。

「きみは一体何者だね」

「スナスロウ」

「えっ?」

「スナスロウ!」

志田四郎が訛ってそう聞こえたのでした。

 


講道館四天王に

講道館――。

それは、柔道館のレジェンドこと嘉納治五郎が、当時始めたばかりの柔道場でした。

柔道着姿の嘉納治五郎/国立国会図書館蔵

嘉納治五郎というのは日本の近代スポーツ界の巨人であり、日本初のオリンピック選手・金栗四三を見いだした人。

大河ドラマ『いだてん』では、役所広司さんが演じていましたね。

18才で柔術を学び、才能と努力のかいもあって、名人となります。そして若くして、講道館を始めたのでした。

その講道館、七人目の入門者が、この薄汚い子供でした。

四郎は入門に際して印鑑ではなく、血判を推しました。

印鑑すら持たない子供だったのですから、応対した側も戸惑ったと思います。

なんせ訛りも強い。

意思の疎通には筆談が必要だったほどです。

しかしこの小柄な少年、いざ柔術の稽古を初めてみると、身体能力のすさまじさがあらわになりました。

床に指がねばりつくような脚さばきは、まるで蛸。

幼い頃、船の上で仕事をしていて身につけた動作とされています。

小柄で敏捷な様子は、まさに猫。

相手から投げられてもくるりと回転して、そのままかわしてしまうことすらありました。

治五郎と四郎が二人きりで、寒い早朝でも稽古に励むこともよくありました。

入門したてでありながら、負けん気の強さで厳しい特訓にもついていったのです。

まさかあの、酷い訛りで何を話しているかもわからないような少年が、これほどまでに天性の逸材であったとは……。

治五郎の教えのもとその才能を開花した四郎は、いつしか「講道館四天王」のひとりに数えられるようになるのです。

 

伝説の「山嵐」とは

明治18 年(1886年)。

伝説の一戦が行われようとしていました。

警視庁武術大会です。

全国各地から剣道、柔術の猛者が集うこの大会は、どの流派が日本の頂点に立つのがふさわしいか、それを決める一戦。

会場には、ひときわ小柄な姿がありました。

当時の男性の平均身長は158センチですから、四郎はそれよりもさらに小さいのです。

このとき、四郎と対戦したのは、戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎説も)でした。

小兵の四郎がすさまじいスピードで技をしかけます。

――敵の懐に飛び込み、敵の脚を払い上げると、敵の体はかるがると四郎の体を飛び越え、バーン!――

こうして書いてみると何がなんだかわかりませんが、見る方もそうかもしれません。

さほどに電光石火の早業であったのです。

「むむむむッ! なんだあの技は……」

「講道館おそるべし……」

その鮮やかさに一同皆驚きました。

小柄で体が柔らかい四郎の動きは、しかしながら豪快で、見る者を驚かせ、まさに伝説となったのです。

あまりの強さに、こんな風に言われたほどだったとか。

「寄るな触るな西郷四郎」

そしてこの大会で、あまりに講道館出身者の強さが際立ったため、警視庁に正式採用されることにります。

このとき四郎が使ったのが、後に

「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」

と呼ばれるほどの技「山嵐」でした(参照:柔道チャンネル→link)。

 

実は「山嵐」は一時期技から削除されました。

あまりに伝説的で、かつ四郎をモデルにした小説『姿三四郎』の人気が高まりすぎたため「フィクションにしか存在しない技」として認知されてしまったのです。

技の仕組みは、背負い投げと払い腰をあわせたような、かなり特殊なカタチ。

決まりにくいため実戦ではあまり使用されない、まさに「幻の技」です。

西郷四郎のみ使用可能とされることもありますが、そうではありません。

公式試合で決めるのはほぼ不可能なほど難しいため、そんな伝説が生まれてしまったようです。

 

大陸雄飛へ

会津出身同士の縁もあってか。

明治17年(1885年)、志田四郎は西郷頼母の養子となりました。

さらに明治21年(1888年)には、途絶えていた西郷家を再興して「西郷四郎」と名乗るようになります。

嘉納治五郎は、四郎こそ講道館柔道の後継者と考えたのでしょう。

明治22年(1889年)に海外へ行く際、四郎に後事を託します。

しかしその翌年、四郎は突如講道館を出奔したのです。

彼は宮崎滔天(とうてん)と意気投合し、中国の孫文を支援しました。

四郎はかつて「イクグン大将になれないのならば、満州で馬賊になる」と口にしていたそうなので、もともとそういうスケールの大きな望みを持っていたのでしょう。

また、時代背景もありました。

明治時代、薩長閥の政府のもとで、会津藩出身者は鬱屈した思いや反感を抱いていました。

日本で鬱々とした思いを抱くよりも、国外に出ていってしまったほうが自由だと、大陸に向かう者が多かったのです。

四郎もその中の一人として活躍し、大正11年(1922年)に広島県尾道で亡くなりました。

 

「姿三四郎」伝説

小柄で細身、ともかく強い柔道選手のあだ名に「三四郎」というものがあります。

その由来は、富田常雄人気小説『姿三四郎』の主人公の名です。

国民的人気作品となったこの作品は、何度も映画、テレビドラマ化、そして漫画化もされました。

会津出の小柄な少年が、必殺技「山嵐」をひっさげて強敵と戦う颯爽とした姿。

ひたむきな青春物語は、読むもの見るものを、柔道へのロマンに引き込みました。

その姿三四郎のモデルこそ、西郷四郎です。

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四郎の伝説的な活躍を読んでいると『なんだか漫画みたい……』と感じられるかもしれません。

突如あらわれた、型破りな少年。そんな少年がいざ競技を始めると、すさまじいセンスを発揮して強くなる。

しかも、彼にしかできない独自の技を持っている――。

まるで少年向けスポーツ漫画の設定であり、皆さんも馴染み深いでしょう。

例えば現在人気の自転車漫画『弱虫ペダル』は、スポーツ経験のない小野田坂道が、彼独自の走法で大活躍する物語です。

格闘技系で言えば『はじめの一歩』なんかもその典型かもしれませんね。

「バカな! 素人そのもののコイツが何故こんな力を……!」

そんなふうにエリートでお金持ちのライバルが焦る場面なんて、もうテンプレートのようなもの。

【西郷四郎の活躍ぶりが漫画のようだ!】と言うよりは、日本のスポ根の源流が、彼をモデルとした「姿三四郎」ではないでしょうか。

会津の山奥から上京し、彗星の如く輝いた西郷四郎。

その煌めきはフィクションを通して、今でも私たちを魅了し続けているのです。


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【参考文献】
『史伝西郷四郎―姿三四郎の実像 (1983年)』(→amazon

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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