西郷四郎

西郷四郎(左)と会津藩家老だった西郷頼母/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

満身創痍の会津藩に生まれた西郷四郎~軍人の夢敗れて伝説の柔道家となる

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西郷四郎
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伝説の「山嵐」とは

明治18 年(1886年)。

伝説の一戦が行われようとしていました。

警視庁武術大会です。

全国各地から剣道、柔術の猛者が集うこの大会は、どの流派が日本の頂点に立つのがふさわしいか、それを決める一戦。

会場には、ひときわ小柄な姿がありました。

当時の男性の平均身長は158センチですから、四郎はそれよりもさらに小さいのです。

このとき、四郎と対戦したのは、戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎説も)でした。

小兵の四郎がすさまじいスピードで技をしかけます。

――敵の懐に飛び込み、敵の脚を払い上げると、敵の体はかるがると四郎の体を飛び越え、バーン!――

こうして書いてみると何がなんだかわかりませんが、見る方もそうかもしれません。

さほどに電光石火の早業であったのです。

「むむむむッ! なんだあの技は……」

「講道館おそるべし……」

その鮮やかさに一同皆驚きました。

小柄で体が柔らかい四郎の動きは、しかしながら豪快で、見る者を驚かせ、まさに伝説となったのです。

あまりの強さに、こんな風に言われたほどだったとか。

「寄るな触るな西郷四郎

そしてこの大会で、あまりに講道館出身者の強さが際立ったため、警視庁に正式採用されることにります。

このとき四郎が使ったのが、後に

「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」

と呼ばれるほどの技「山嵐」でした(参照:柔道チャンネル→link)。

 

実は「山嵐」は一時期技から削除されました。

あまりに伝説的で、かつ四郎をモデルにした小説『姿三四郎』の人気が高まりすぎたため「フィクションにしか存在しない技」として認知されてしまったのです。

技の仕組みは、背負い投げと払い腰をあわせたような、かなり特殊なカタチ。

決まりにくいため実戦ではあまり使用されない、まさに「幻の技」です。

西郷四郎のみ使用可能とされることもありますが、そうではありません。

公式試合で決めるのはほぼ不可能なほど難しいため、そんな伝説が生まれてしまったようです。

 


大陸雄飛へ

会津出身同士の縁もあってか。

明治17年(1885年)、志田四郎は西郷頼母の養子となりました。

さらに明治21年(1888年)には、途絶えていた西郷家を再興して「西郷四郎」と名乗るようになります。

嘉納治五郎は、四郎こそ講道館柔道の後継者と考えたのでしょう。

明治22年(1889年)に海外へ行く際、四郎に後事を託します。

しかしその翌年、四郎は突如講道館を出奔したのです。

彼は宮崎滔天(とうてん)と意気投合し、中国の孫文を支援しました。

四郎はかつて「イクグン大将になれないのならば、満州で馬賊になる」と口にしていたそうなので、もともとそういうスケールの大きな望みを持っていたのでしょう。

また、時代背景もありました。

明治時代、薩長閥の政府のもとで、会津藩出身者は鬱屈した思いや反感を抱いていました。

日本で鬱々とした思いを抱くよりも、国外に出ていってしまったほうが自由だと、大陸に向かう者が多かったのです。

四郎もその中の一人として活躍し、大正11年(1922年)に広島県尾道で亡くなりました。

 


「姿三四郎」伝説

小柄で細身、ともかく強い柔道選手のあだ名に「三四郎」というものがあります。

その由来は、富田常雄人気小説『姿三四郎』の主人公の名です。

国民的人気作品となったこの作品は、何度も映画、テレビドラマ化、そして漫画化もされました。

会津出の小柄な少年が、必殺技「山嵐」をひっさげて強敵と戦う颯爽とした姿。

ひたむきな青春物語は、読むもの見るものを、柔道へのロマンに引き込みました。

その姿三四郎のモデルこそ、西郷四郎です。

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四郎の伝説的な活躍を読んでいると『なんだか漫画みたい……』と感じられるかもしれません。

突如あらわれた、型破りな少年。そんな少年がいざ競技を始めると、すさまじいセンスを発揮して強くなる。

しかも、彼にしかできない独自の技を持っている――。

まるで少年向けスポーツ漫画の設定であり、皆さんも馴染み深いでしょう。

例えば現在人気の自転車漫画『弱虫ペダル』は、スポーツ経験のない小野田坂道が、彼独自の走法で大活躍する物語です。

格闘技系で言えば『はじめの一歩』なんかもその典型かもしれませんね。

「バカな! 素人そのもののコイツが何故こんな力を……!」

そんなふうにエリートでお金持ちのライバルが焦る場面なんて、もうテンプレートのようなもの。

【西郷四郎の活躍ぶりが漫画のようだ!】と言うよりは、日本のスポ根の源流が、彼をモデルとした「姿三四郎」ではないでしょうか。

会津の山奥から上京し、彗星の如く輝いた西郷四郎。

その煌めきはフィクションを通して、今でも私たちを魅了し続けているのです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
『史伝西郷四郎―姿三四郎の実像 (1983年)』(→amazon

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