2021年3月、日本テレビの番組『スッキリ』において、ある発言が問題になりました。
お笑い芸人・脳みそ夫氏が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」という謎かけをしたのです。
脳みそ夫氏当人の中に、それほどの意識はなかったかもしれません。
しかし、その言葉の意味するところは明確なアイヌ差別であり、すでに大人気漫画『ゴールデンカムイ』でも指摘しているところで、「1巻 第6話」(→amazon)においてはこんな会話がありました。
白石「そのアイヌはお前さんの飼いイヌか?」
杉元「アゴを砕いて本当にしゃべられんようにしてやろうか」
アシリパ「よせ杉元 私は気にしない 慣れてる」
『ゴールデンカムイ1巻 第6話』(→amazon)より
※アシリパの「リ」は小文字です
『ゴールデンカムイ』は明治時代のアイヌを描いた漫画・アニメで、作中では彼らの暮らしだけでなく、長く続いた辛い歴史も反映されています。
上記第6話でのシーンをもう少し補足しますと……。
脱獄囚人の白石がアシリパのことを、和人である杉元の飼いイヌであるのか?とからかったことから始まりました。
即座に杉元は激怒しますが「私は気にしない。慣れてる」と返答するアシリパ。
その時「慣れる必要がどこにある」と杉元は怒りを感じます。
このからかいは単に「アイヌ」と「犬」を掛けた駄洒落ではありません。
アイヌの人々を「アッ、犬」と侮辱し、人より劣る犬扱いという差別的な言動が存在します。杉元が激怒したのは、その差別性に気づいたからです。
白石という人物は、このあと杉元一行に加わりました。
囚人ながら気のいい男で、アシリパを差別するようなこともない。
そんな白石ですら、最初は口に出してしまうほど、当時の北海道にはアイヌ差別が蔓延していたという表現でしょう。
本作では、アシリパだけではなく、キロランケやインカラマッといったアイヌの人々も、和人の蔑視や差別にしばしばさらされます。
アイヌになりすまし、そのコタン(村落)を乗っ取っていた和人も登場します。
こうした和人がいるからこそ、杉元らの見せるアイヌへの誠意が際だって見えるのでしょう。
本稿では、長らく続いた和人のアイヌ差別の歴史を古代から振り返ってみます。
※記事の中には差別的な語彙や表現が出てきますが、実態を描写するために敢えて記載しております。ご理解ください
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大和朝廷討伐対象者としての「蝦夷」
和人がアイヌをどう見ていたのか?
この問題を語り始めるには、まず大和朝廷の討伐対象者としての視点にふれなければなりません。
彼らに対する中央の理解は「なんとなく北方に野蛮な人がいることはわかる」という程度。
和歌に詠まれた「像」等を見ても曖昧で、実態からかけ離れています。
聖徳太子や源義経が、蝦夷の人々を制圧する絵物語も広がりました。
現代人にとっての宇宙空間のような、そんな想像の世界にあるものであったのです。
このころは「愛瀰詩」や「毛人」といった字を当て「エミシ」という名称で呼ばれました。
12世紀頃からは「エビス」と呼ばれるようになりました。
京の貴族たちが、野蛮に思える東国武士を「エビス」呼ばわりすることもあったほどです。
こうした東国武士は、元寇の際に敵陣営である蒙古や朝鮮の人々を「エビス」と呼んでおります。
自分と違う外国人を呼ぶ言葉が、中世までの「蝦夷」でした。
このころはアイヌと東北地方の人々の区別がついておりません。
両方とも「蝦夷」です。
朝廷に叛旗を翻した東北のアテルイやモレらも「蝦夷」とされておりました。
では、アイヌの人々と東北地方の住民が同一であるか?
その点については、様々な見方があります。
東北地方には、アイヌ語由来とみられる地名もあります。
北海道のアイヌにせよ、東北地方の蝦夷にせよ。
西日本の朝廷からすれば野蛮で劣っており、討伐支配する対象とみられていたこと。
ここが見逃してはならない意識です。
この感覚は、中世で終わったわけではありません。
関白・豊臣秀吉の命で上洛した奥羽の大名は、蔑視にさらされました。
伊達政宗はそうした蔑視に対して、自分や伯父の最上義光は、和歌はじめ文化に通じているのだ、と反論したほどです。
戊辰戦争で進軍する西軍側にも、野蛮な東北の連中を倒しに行くという感覚がある者がいました。
1988年(昭和63年)、当時のサントリー社長であった佐治敬三が、テレビ番組でこんな発言をしております。
仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い。
熊襲とは、九州南部地方に住んでいた朝廷からの討伐対象であり、これは発言者のミスです。
20世紀になっても大和朝廷時代の差別発言をしたことに対して、東北地方で反発が起きます。
東北地方での、サントリー不買運動につながりました。
未開で文化もない連中を、中央こそが制圧して導くべきだ――この差別的な考え方は、アイヌの人々や北海道の歴史を蝕むものとなります。
交易相手として
京都の貴族たちにとって、東北にいるのは異民族。
夢の向こうにいるようなもので、ファンタジックなものに過ぎませんでした。
この像が具体性を帯びてくるのは、しばし時代がくだったころ。
戦国時代ともなると、戦国大名の蠣崎氏が、蝦夷地(現在の北海道)を支配しようとしました。
実際、蠣崎義広の代までは、アイヌと激しい抗争を繰り広げております。
しかし、5代目当主・蠣崎季広の代になって、アイヌと和議が成立。
蝦夷地南部の支配権を確立するとともに、交易によってもたらされる利益に目をつけました。
季広の子・松前慶広が松前藩初代藩主となります。
松前藩は、対馬藩の宗氏と並ぶ「無高(一万石高)」の大名です。
幕府からの「黒印状」により異国との交易を認められ、アイヌとの「商場・知行(=交易)」を基にして藩経済を成立させます。
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この構図は、17世紀頃から崩れてゆきます。
蝦夷で金が取れる――そう和人側が認識しつつあったのが原因でした。
1669年(寛文9年)。
シャクシャインの蜂起に手を焼いた幕府は、アイヌ側の要求を認めるようになります。
シャクシャインの反乱はなぜ失敗に終わったのか 松前藩の策略があまりにエグい
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しかし、長くはありませんでした。
ロシアも蝦夷に目を向けるようになり、日本とロシアの狭間で、アイヌの人々は苦しむことになったのです。
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