華族制度(公侯伯子男)

鹿鳴館を描いた浮世絵/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

公侯伯子男の華族制度はどう生まれた?元公家や大名家の意外な暮らし

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その女性は怒ることすら思いつかないほどに驚いて、ただ眼をぱちくりさせていたとか。

そうした「深窓の令嬢」が世間慣れしていくのは、大変なことだったでしょうね。

そんな感じで、やはり華族と一般人の視線は互いに異なるものでした。

学習院で体育の授業や体育祭が行われるようになった頃、「女子が屋外で運動をし、それを人に見せるなどはしたない」というような記事を書いた新聞もあったくらいです。

 

戦時には看護婦志願の女性も多かった

しかし、そうした「深窓の令嬢」も明治の前半までのこと。

男女問わず、だいたいの華族は自分の置かれた立場や、世間の目に対応していきました。

日清戦争日露戦争の際、自ら看護婦(※)に志願する華族女性も多かったといいます。

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華族の男性はもちろん軍人として戦地に行くことになったので、

「父や兄弟、夫が危ないところにいくというのに、私だけ安全なところでのうのうとしているわけにはいきません」

「少しでも家族や好きな人の役に立ちたい」

と考える女性は多かったのだとか。

この辺は、なんとなく戦国時代や江戸時代の大名の妻などと同じような性質が感じられますね。

これは、クリミア戦争(1853~1856年)でフローレンス・ナイチンゲールが看護のやり方と看護婦のイメージを劇的に変えたことや、昭憲皇太后から赤十字へ毎年の下賜金を出していたことなども影響していました。

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とはいえ、当時は「看護のためとはいえ、戦争に出ているような若い男と妙齢の女が身近に接するのはよくない」と思われ、「できるだけ年を取っていて、不美人な者」しか直接看護はできなかったといいます。

皇族や華族のトップクラスの女性たちが監督したこともあり、その手の不祥事は起きなかったようですが。

日清戦争後には、看護の功績を称えて、十人の看護婦が叙勲を受けました。これにより、看護婦はより一層「憧れの職業」というイメージが強まり、それまでまさに「奥様」だった女性たちにも「私達も、国や家族のために働くことができる」という希望を持たせることになります。

女性の叙勲には反対意見もあったようですが、少しずつ高貴な女性の社会参画が進んできた一例といえるでしょう。

(※)現在は男女関係なく「看護師」ですが、当時の「看護婦」表現にしています。

 

明治時代から神式=土葬に切り替わりお墓事情が大変に

何らかの理由で京都へ戻ったり、東京での移住を拒んだ華族もわずかにいました。

内訳は、主に公家華族や僧家華族です。

後者の場合はそもそも家=寺社=職場であることが多いので、放りっぱなしにしておくことはそもそもしにくいですよね。

公家華族の場合は、「病気療養のため東京への移住を延期してほしい」と願い出る者もいました。

逆に、一度東京に移り住んでから体調が悪くなり、住み慣れた京都周辺での療養を望むケースもあったようです。文字通り「水が合わなかった」のでしょうか。

他に「父の看病をしたいけれど、京都と東京を行き来する生活は経済的にキツイ」など、もっともな理由がほとんど。

特に自身や家族の病気については、「もしも回復しなかった場合、先祖と同じ場所に葬ってほしい」との希望で……ということもありました。

東京に移り住んだ後、「自分の死後は東京の寺院に」と遺言した者もいます。

実は、これまた経済的な理由が絡んでいました。

江戸時代までは皇室も仏式=火葬を執り行っていましたが、明治時代から神式=土葬に切り替わっています。

そのため、東京に移った公家家族が東京で亡くなった場合、皇室に倣うとすれば土葬にするのが望ましいということになりますよね。

しかし、「死後は先祖と同じ土地に」と希望していたとしたら、当時の技術かつ鉄道が発展していない状況で、東京で亡くなった人を京都での土葬のために移動させるのはとんでもないお金がかかるわけです。

これによって、東京での葬儀を選ぶことになった者も多いでしょう。

現代の我々が「貴族」というと、いかにも苦労知らずで贅沢三昧だったかのように思ってしまいますが、彼らにも時代の変遷によるさまざまな苦労や心痛があったんですね。

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・西園寺の分家である今出川(いまでがわ)

◆後に以下の2家が追加

・源氏の広幡(ひろはた)

・摂家の分家である醍醐

【参考】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon
刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon
国史大辞典「華族制度」「華族令」「清華家」

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