満洲国ゴールデンカムイ史実解説

ゴールデンカムイ4・21・29巻/amazonより引用

ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

満洲鉄道と満洲国とは? ゴールデンカムイの理解深まる史実解説

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満州鉄道と満洲国
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関東軍の独走と満洲事変

阿片戦争以来、欧米列強に圧倒されつつある中国大陸では、明治維新のような刷新が必要だと望まれてきました。

そして1912年(明治45年)、日露戦争の7年後――。

ついに辛亥革命が起こります。

ここで中華民国が成立せず、軍閥が群雄割拠状態になってしまったのは悩ましいところです。

中華民国内での争いが勃発すると、関東軍は干渉しました。

奉直戦争(第一次1922年・第二次1924年)――直隷派と奉天派の争いです。

この内戦において、関東軍は奉天派に加担。その支援を受けて、奉天派の張作霖(ちょうさくりん)は、馮玉祥(ふうぎょくしょう)らに勝利をおさめるのです。

しかし、この張作霖にしたって、いつまでも関東軍の傀儡でいられるわけでもありません。

いいかげん日本の支配下ではいられない。とはいえ、踏ん切りもつかない。悩ましい状態になります。

孫文の死後、後継者の蒋介石が北伐の準備を整える中、1928年(昭和3年)、張作霖は本拠地の満洲へ戻るべく、特別列車に乗ります。

この列車が爆発し、張作霖は命を落とすのです。

黒幕は誰だったのか?

関東軍幕僚・河本大作大佐らとされております。

Wikipediaには様々な説が記載されておりますが、日本語版のみではない記述、参考文献等を考慮し、最も整合性が高い説としてそう記載させていただきます。ご了承ください。

このあとも、満洲と鉄道は歴史に暗い影を落とす事件の舞台として登場します。

1931年(昭和6年)9月18日、関東軍により南満州鉄道が爆破されました(柳条湖事件)。

板垣征四郎、石原莞爾の関東軍参謀による、満洲領有計画の一手であり、この後、関東軍は満洲を武力制圧。

いわゆる「満州事変」です。

満洲に国を建設するには?

そんな関東軍は、謀略のみならず大義名分も必要でした。明治維新が尊王思想を背景にしたように、目指すべきものはあったのです。

そこへ進む前に、時代背景を考えてみましょう。

 

高まる閉塞感「脱亜入欧」には限界があった

脱亜入欧――。

そんな思想のもと、明治政府は日清戦争、日露戦争に勝利しました。

皇族、華族はドレスを着て、馬車に乗り鹿鳴館でステップを踏む。けれども、形だけ真似したところで、ヨーロッパは冷たい反応を返してきます。

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「所詮は猿真似じゃないか」

当時のヨーロッパは、王室同士が血縁関係でつながっておりました。

存在感が大きいのが、ヴィクトリア女王のイギリス。かの女王の孫たちが、ヨーロッパ各地にいます。

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例外的な大国は、王政を革命で打破したフランスくらいです。

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日本がここに入ろうとしても、人種の壁もあって婚姻関係を結べない。

アメリカやフランスのように、王室はいらないと振り切ろうにも、今更そういうわけにもいかない。明治維新で天皇を国家の中心にした以上、無理があります。

そこで見出されたのが、アジア人の王室との婚礼関係でした。

ハワイのカイラウニ王女との縁談もあったのですから、単一民族どころの話ではありません。

実際に成立したのは、朝鮮王族と、清朝皇族です。

特に清朝皇族は重要でした。

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ラストエンペラー溥儀、その苦難と満洲国

1912年、辛亥革命により、愛新覚羅溥儀は帝位を追われました。

満洲国皇帝時代の溥儀/wikipediaより引用

測位から3年目のこと。

およそ三世紀にわたり続いた清王朝の終焉でした。

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※『ラストエンペラー』

中華民国の孫文は溥儀に温情を示し、皇帝の称号保持、宮中居住許可、生活費の支給を許しておりました。

それが1924年、馮玉祥が国民軍の実権を握ると、紫禁城から追われてしまいます。

そんな溥儀に目をつけたのが関東軍でした。

1931年、関東軍は溥儀に接触。

「清朝復辟(しんちょうふくへき・清朝復興)」という大義名分をちらつかせます。

そして1932年に満洲国建国――。

中華民国はこの国を認めず、国際連盟に提訴すると、リットン調査団が派遣されて、報告書がまとまりました。

その「リットン報告書」の内容は?

・中国の提訴通り、これは日本の侵略である

・日本は満洲から撤退すべきである

・ただし、南満州鉄道沿線は除外とする

・日本の満洲に対する権益は認める

国際連盟としても、妥協点を認めた上での内容ではありました。

1933年、日本代表・松岡洋右は満洲国は独立した国家であると主張するものの、賛成42に対して反対1、日本のみという圧倒的な差で可決されてしまいます。

これを受け、日本は翌1934年に国際連盟を脱退してしまうのです。

我が代表堂々と退場す――。そんな新聞の見出しを見たことのある方は多いかと思います。

松岡洋右/wikipediaより引用

この秋にはドイツも脱退。

常任理事国2カ国が相次いで脱退し、国際連盟の集団安全保障体制は大きく揺らぎます。

日本とドイツはファシズム(全体主義)国家として、イギリス、フランス、アメリカと緊張関係が高まってゆく――重大な転機でした。

◆時代の転機

【幕末から明治維新まで】

フランス:幕府

イギリス:薩長土肥

【日露戦争まで】

対ロシアに対抗するため、イギリスとアメリカと協力する

イギリスとは1902年に日英同盟を締結

【国際連盟】

1934年に脱退

日本が国際連盟から脱退した1934年、溥儀は満洲国皇帝として即位します。

しかし、この皇帝の座も儚いものでした。

日本の国際連盟脱退から4年後、日中戦争に突入。

さらにその4年後の1941年、太平洋戦争が勃発します。

1945年、日本が敗れると、溥儀はソ連に逮捕されてしまうのでした。

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