明治維新の波に乗り、数多の事業を手掛けた渋沢栄一。
その栄一が興した渋沢家を、もしアナタが継げるとしたら?
大富豪じゃん!
最高じゃん!
多くの方がそんな感想を抱かれるかもしれませんが、実際に渋沢栄一の跡継ぎとなった孫の渋沢敬三は、まるで真逆の絶望を感じていました。
「これで私の夢は断たれてしまった……」
誰もが羨むセレブポジションを手にしていながら、なぜ渋沢敬三は辛く沈痛な面持ちとなってしまったのか。
昭和38年(1963年)10月25日に亡くなられた、その生涯を振り返ってみましょう。

渋沢敬三/wikipediaより引用
渋沢敬三 父の廃嫡により表舞台へ
渋沢敬三は明治29年(1896年)8月25日、渋沢篤二の長男として生まれました。
父・篤二は、渋沢栄一の嫡男。
母・敦子は、公家の出身。
つまり敬三は、渋沢栄一の孫にあたる、良家の子息となります。
渋沢栄一(祖父)
│
渋沢篤二(父)
│
渋沢敬三(本人)
当時の渋沢家は、順当にいけば父の篤二が渋沢家を継ぎ、敬三もしかるべき期間を置いて跡取り候補の一人になる流れだったでしょう。
しかし、そこでトラブルが勃発。
結論だけ先に述べますと、篤二を飛び越えて、敬三に「渋沢家跡継ぎ」が回ってきます。
なぜ、そんなことになったのか?
敬三の前に、少しばかり篤二に注目させていただきますと……。
父の篤二は、姉の歌子に育てられたのですが、姉夫妻のプレッシャーが強すぎたせいか、途中から道を踏み外し、遊女や芸者のもとへ足繁く通う不良息子に成長してしまいました。
もともと彼は芸術学問分野において豊かな才覚に恵まれたと言います。
しかし、当時の渋沢家は日本を代表する実業家一族。
遊び歩く篤二に対しては渋沢家の親戚家族から非難もあり、本来なら父の栄一からキツい雷が落とされる場面でもありました。
実際はそうなっていません。
なぜなら渋沢栄一自身が、息子以上の遊び人だったからです。
※以下は渋沢栄一の女性関係まとめ記事となります
-

女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル 大河ドラマで描かれなかったもう一つの顔
続きを見る
もしかしたら篤二に対し、栄一から何らかのお咎めがあったかもしれませんが、説得力は皆無だったことでしょう。
そんな篤二を遊びから遠ざけるため、渋沢家では明治28年(1895年)、公家出身の橋本敦子と結婚させます。
二人の間に渋沢敬三も生まれ、これにて一件落着かと思われましたが、遊びの病気は治っていませんでした。
澁澤倉庫株式会社の取締役会長として活躍していたのも束の間、篤二は明治44年(1911年)、新橋の遊女・玉蝶と「不倫逃避行」に出てしまうのです。
これにはさすがに栄一の娘たちも激怒。
翌年、ついに栄一は篤二に対し「廃嫡」を言い渡さざるを得ませんでした。
-

栄一の息子・渋沢篤二も“女好き”がヤバかった?遊び過ぎて跡目を剥奪
続きを見る
栄一に懇願され法科を選択
篤二の廃嫡が正式に公表されたのは、大正2年(1913年)のことです。
知らせを耳にした敬三は絶句したといいます。
なぜなら篤二の廃嫡は、すなわち自身に相続権が回ってくるということであり、父へ向けられていたプレッシャーもそっくりそのまま自分に押し寄せます。
「将来がすべて断たれたように感じられた」
旧制中学の卒業を目前に控え、敬三は動物学者になる夢を抱いていました。
それが渋沢家の当主ともなれば、当然、実業界を背負うということであり、学者からかけ離れた生活が待っています。
敬三は旧制仙台二高へと進学。
夢見ていた理科を選択することは叶わず、祖父の意志で法科を選びました。
「第一国立銀行の跡取りになってほしい。頼む、お願いだ」
栄一は頭を畳に擦り付けんばかりに懇願したといいます。

渋沢栄一/wikipediaより引用
不本意ながら、敬三もまた祖父のことを深く尊敬しており、「祖父にそこまで言われたら……」と考えを変え、法科へ進学したのです。
同年中に栄一は渋沢同族株式会社を立ち上げ、社長には敬三が据えられました。
今でいえば「大学生社長」といったところでしょうか。
現代だとそう珍しくないかもしれませんが、当時としては極めて異例の人事でした。
結局、敬三はそのまま東京帝国大学へ進学し、大正10年(1921年)に卒業すると横浜正金銀行(現在の三菱UFJ銀行)へ入行。
翌年にはロンドン支店での勤務を命じられ、約3年間の海外暮らしを経験しました。
ひそかに民俗学へ傾倒していたが
こうした経歴だけを見れば、渋沢敬三は名実ともに栄一の後継者です。
しかし、彼の心に宿っていた「動物学者」への憧れが消え去ったわけではありません。
敬三は幼い頃から生き物を愛していました。
幼年期に暮らした渋沢邸には池があり、潮の満ち引きに合わせて様々な魚を鑑賞して育っています。
近所の子どもたちと同人サークル『腕白倶楽部』を立ち上げ、冒険小説や昆虫図鑑などを刊行。
修学旅行でも訪問先の土地データを収集するなど、根っからの研究・自然好きだったのです。
当初、理科を目指していたのも決して消去法なんかではなく、幼いころからの夢を実現するための通過点だったからに他なりません。
庶民から見れば憧れの大富豪・渋沢家も、敬三にとっては悲劇的な進路だったんですね。
かくして敬三は実業界に身を染めていく一方、知的好奇心も満たそうとしました。
現代でも高い評価を得る『遠野物語』の作者であり、民俗学者の柳田国男との出会いをキッカケに「民俗学」へ傾倒。

柳田國男/wikipediaより引用
学生時代から動植物の化石や郷土のオモチャを収集した「アチック・ミューゼアム」を作っていたのですが、ここを拠点に「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」を立ち上げ、収集物の整理や研究を進める研究会を開きました。
この研究会は、敬三のロンドン出張で一時中断を余儀なくされますが、彼自身の学問への熱は異国でも失われません。
敬三は時間を見つけてはヨーロッパ各地の美術館や博物館をめぐり、教養を積み重ねました。
そして帰国後は、祖父の興した第一銀行へ入行。
多忙の身でわずかな合間を縫っては研究活動に勤しみましたが、同時に活動への限界も感じざるを得ませんでした。
望まぬうちに日銀総裁まで上り詰める
大正15年(1926年)に敬三は第一銀行の取締役に就任。
他にも東京貯蓄銀行や財団法人慈英会など、栄一とかかわりのある団体役員も兼ねていきます。
業務はさらに多忙を極め、渋沢家の跡取りとして着実に立場を築いていきました。
そして昭和6年(1931年)に渋沢栄一が亡くなると「子爵」を襲名し、名実ともに渋沢家の当主として認められます。
もともと能力は高かったのでしょう。
大過なく栄一の跡取りとして渋沢家を支えていた敬三。
当人としては「銀行業務を楽しいと思ったことは一度もない」と言い切るほどで、不本意な日々でした。
時は流れて、日本が太平洋戦争に突入した昭和16年(1941年)になると、第一銀行副頭取となります。
戦時体制につき自由な銀行運営はできるはずもありませんが、彼は自身を含めた重役全員が同じ部屋で業務にあたる「大部屋制」を取り入れ、業務の効率化や行員間の風通しを改善したと言われます。
そして翌年には、戦時内閣で総理大臣を務めた東条英機の指名により、否応なく日銀副総裁へ就任。
敬三は断固として拒み続けながら、結局、東条の圧力に屈しました。そのせいか、敬三は「東条に強姦された」とまで語り、嫌悪感を露わにしています。
そんな日銀副総裁の仕事は非常に単純でした。
「戦争協力」の名のもとに際限なく赤字国債を発行するだけで、2年後には日銀総裁まで押し上げられ、銀行家としての手腕を振るう余地などありません。
失意の日々を過ごしていた敬三が同職から解放されたのは、皮肉にも自身が協力していた日本の敗戦がキッカケでした。
そのため戦争責任から逃れられず、敬三もまた数々の処分を下されます。
公職追放や財産の没収に着せず 周囲を驚かせた
戦後、戦争責任を強く感じた敬三は、新たに発足した幣原内閣の大蔵大臣に就任。
赤字国債の乱発によって自らの引き起こしたハイパーインフレを終息させるべく、教科書などでもお馴染みの「預金封鎖」や「新円切り替え」などの政策で対応に腐心します。
しかし、GHQが戦後の民主化に向け「公職追放」を進めたことで、敬三も「膨張政策に関与した金融機関の幹部」として職を追われます。
さらに、戦後の財閥解体や、富裕層を狙い撃ちした財産税問題でも、渋沢家は大きなダメージを受けました。
そうした処分に対する敬三の反応は、淡々としたものでした。
まずGHQは、敬三が会長を務める渋沢同族株式会社を「財閥」要件に当たると指摘。
一時は解体が命じられますが、再調査が行われた結果「やはり財閥にあらず」という通告が出されます。要は、敬三が手続きすれば処分を免れることができたのです。
しかし敬三は、あえて行わず、こう言ったと伝わります。
「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷に百姓として戻ればいい」
財産税を追及されたときにも、同じような行動でした。
敬三は住んでいた豪邸を惜しげもなく差し出し、敷地の脇にあった執事用の小屋に移り住んだというのです。
そして公職追放後は、わずかな土地で野菜を育てながら生活し、そんな彼を訪れた人たちも興味深い言葉を残しています。
「敬三が、お手製の野菜料理を振舞ってくれて、しかもその表情はイキイキとしていた」
彼にとって、
・銀行員という職業
・渋沢栄一の跡取りという地位
・莫大な財産
は自ら望んで得たものではありません。
それどころか学者となる夢を奪った原因であり、敬三にしてみれば「さっさと全部持っていってくれ。オレを楽にしてくれ」という心境だったのかもしれません。
こうなると、大河の主役はむしろ敬三では……?と思われる程の清々しさです。
敬三は静かに涙を流した
渋沢敬三は戦後にも国際電信電話(KDDI)の社長や文化放送の会長などを歴任しました。
と言うと「やっぱり実業が好きだったんじゃね?」と思われるかもしれません。
そこで本稿の最後に、学問との関わりについて、あらためて注目したいと思います。
銀行で働き、多忙となった敬三は、資料の発行や、そのために奮闘する研究者たちの支援を通じて、学問に貢献しようと考えました。
その際、特に目をかけていたのが民俗学者の宮本常一(つねいち)です。

宮本常一/wikipediaより引用
小学校教諭であり、駆け出しの民俗学者だった常一は、敬三の口から溢れんばかりの民俗学への強い思いを聞き、衝撃を受けたといいます。
当時、敬三がポケットマネーで運営していた「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」も規模が拡大し、研究者たちの重要なサロンになっていました。
そこで敬三に胸打たれた常一は教職を捨て、アチックでの研究に没頭。
生涯にわたるフィールドワークを通じ『忘れられた日本人』(→amazon)など優れた著作を世に遺します。
また常一は、資料の編さんについても力を入れ、とにかく可能な限りの資料を印刷物として世に送り出すことに注力しながら、研究成果を公開する博物館の充実に力を入れました。
史料や文化財の保護を目的とした「日本民族学会」の設立にも奔走しています。
一方、敬三も少ない時間を割いて研究活動を行い、幼い頃の興味や関心そのままに漁業史に関する研究・著作を残しました。
激務の最中、午前6時半から8時という限られた時間を使っていたようです。
そして昭和38年(1963年)に亡くなるまで、敬三は文化活動を続け、人文学、とくに民俗学の発展に多大なる貢献を果たしました。
「研究者になれずとも、できる限りの貢献をしたい」
「望まぬ実業界の合間に、せめてものやりがいを見出したい」
そんな思いが強くあったのでしょう。
晩年の敬三は思い出を語り、常一がノートに書き記すことが日課になっていました。
ある日も常一が同じように書き取ろうとすると、敬三は静かに涙を流していたといいます。
★
渋沢家に生まれたばかりに、望まぬ生涯を送ることになってしまった敬三。
しかし、彼が研究者ではなく資本家になったことで、より多くの研究が報われたのも事実。
世間的には偉大な事業を残した渋沢栄一ですが、一番身近な孫が涙を流さざるを得なかった生涯に、世の中の無常を感じてしまいます。
あわせて読みたい関連記事
-

女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル 大河ドラマで描かれなかったもう一つの顔
続きを見る
-

栄一の息子・渋沢篤二も“女好き”がヤバかった?遊び過ぎて跡目を剥奪
続きを見る
-

日本初の銀行となる第一国立銀行|渋沢栄一は一体どんな経営手腕を見せたのか?
続きを見る
-

渋沢千代(栄一の妻)は気高く聡明な女性|しかし夫は妾を新居に呼びよせた
続きを見る
-

渋沢兼子は妾として渋沢栄一に選ばれ後妻となった?斡旋業者の複雑な事情
続きを見る
【参考文献】
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
渋沢敬三アーカイブ「渋沢敬三について」(→link)
渋沢栄一記念財団「渋沢敬三没後50年」(→link)
国際留学生協会「渋沢敬三」(→link)
日本常民文化研究所「渋沢敬三とアチック・ミューゼアム」(→link)
他





