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【渋沢敬三】
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望まぬうちに日銀総裁まで上り詰める
大正15年(1926年)に敬三は第一銀行の取締役に就任。
他にも東京貯蓄銀行や財団法人慈英会など、栄一とかかわりのある団体役員も兼ねていきます。
業務はさらに多忙を極め、渋沢家の跡取りとして着実に立場を築いていきました。
そして昭和6年(1931年)に渋沢栄一が亡くなると「子爵」を襲名し、名実ともに渋沢家の当主として認められます。
もともと能力は高かったのでしょう。
大過なく栄一の跡取りとして渋沢家を支えていた敬三。
当人としては「銀行業務を楽しいと思ったことは一度もない」と言い切るほどで、不本意な日々でした。
時は流れて、日本が太平洋戦争に突入した昭和16年(1941年)になると、第一銀行副頭取となります。
戦時体制につき自由な銀行運営はできるはずもありませんが、彼は自身を含めた重役全員が同じ部屋で業務にあたる「大部屋制」を取り入れ、業務の効率化や行員間の風通しを改善したと言われます。
そして翌年には、戦時内閣で総理大臣を務めた東条英機の指名により、否応なく日銀副総裁へ就任。
敬三は断固として拒み続けながら、結局、東条の圧力に屈しました。そのせいか、敬三は「東条に強姦された」とまで語り、嫌悪感を露わにしています。
そんな日銀副総裁の仕事は非常に単純でした。
「戦争協力」の名のもとに際限なく赤字国債を発行するだけで、2年後には日銀総裁まで押し上げられ、銀行家としての手腕を振るう余地などありません。
失意の日々を過ごしていた敬三が同職から解放されたのは、皮肉にも自身が協力していた日本の敗戦がキッカケでした。
そのため戦争責任から逃れられず、敬三もまた数々の処分を下されます。
公職追放や財産の没収に着せず 周囲を驚かせた
戦後、戦争責任を強く感じた敬三は、新たに発足した幣原内閣の大蔵大臣に就任。
赤字国債の乱発によって自らの引き起こしたハイパーインフレを終息させるべく、教科書などでもお馴染みの「預金封鎖」や「新円切り替え」などの政策で対応に腐心します。
しかし、GHQが戦後の民主化に向け「公職追放」を進めたことで、敬三も「膨張政策に関与した金融機関の幹部」として職を追われます。
さらに、戦後の財閥解体や、富裕層を狙い撃ちした財産税問題でも、渋沢家は大きなダメージを受けました。
そうした処分に対する敬三の反応は、淡々としたものでした。
まずGHQは、敬三が会長を務める渋沢同族株式会社を「財閥」要件に当たると指摘。
一時は解体が命じられますが、再調査が行われた結果「やはり財閥にあらず」という通告が出されます。要は、敬三が手続きすれば処分を免れることができたのです。
しかし敬三は、あえて行わず、こう言ったと伝わります。
「ニコニコしながら没落していけばいい。いざとなったら元の深谷に百姓として戻ればいい」
財産税を追及されたときにも、同じような行動でした。
敬三は住んでいた豪邸を惜しげもなく差し出し、敷地の脇にあった執事用の小屋に移り住んだというのです。
そして公職追放後は、わずかな土地で野菜を育てながら生活し、そんな彼を訪れた人たちも興味深い言葉を残しています。
「敬三が、お手製の野菜料理を振舞ってくれて、しかもその表情はイキイキとしていた」
彼にとって、
・銀行員という職業
・渋沢栄一の跡取りという地位
・莫大な財産
は自ら望んで得たものではありません。
それどころか学者となる夢を奪った原因であり、敬三にしてみれば「さっさと全部持っていってくれ。オレを楽にしてくれ」という心境だったのかもしれません。
こうなると、大河の主役はむしろ敬三では……?と思われる程の清々しさです。
敬三は静かに涙を流した
渋沢敬三は戦後にも国際電信電話(KDDI)の社長や文化放送の会長などを歴任しました。
と言うと「やっぱり実業が好きだったんじゃね?」と思われるかもしれません。
そこで本稿の最後に、学問との関わりについて、あらためて注目したいと思います。
銀行で働き、多忙となった敬三は、資料の発行や、そのために奮闘する研究者たちの支援を通じて、学問に貢献しようと考えました。
その際、特に目をかけていたのが民俗学者の宮本常一(つねいち)です。
小学校教諭であり、駆け出しの民俗学者だった常一は、敬三の口から溢れんばかりの民俗学への強い思いを聞き、衝撃を受けたといいます。
当時、敬三がポケットマネーで運営していた「アチック・ミューゼアム・ソサエティ」も規模が拡大し、研究者たちの重要なサロンになっていました。
そこで敬三に胸打たれた常一は教職を捨て、アチックでの研究に没頭。
生涯にわたるフィールドワークを通じ『忘れられた日本人』(→amazon)など優れた著作を世に遺します。
また常一は、資料の編さんについても力を入れ、とにかく可能な限りの資料を印刷物として世に送り出すことに注力しながら、研究成果を公開する博物館の充実に力を入れました。
史料や文化財の保護を目的とした「日本民族学会」の設立にも奔走しています。
一方、敬三も少ない時間を割いて研究活動を行い、幼い頃の興味や関心そのままに漁業史に関する研究・著作を残しました。
激務の最中、午前6時半から8時という限られた時間を使っていたようです。
そして昭和38年(1963年)に亡くなるまで、敬三は文化活動を続け、人文学、とくに民俗学の発展に多大なる貢献を果たしました。
「研究者になれずとも、できる限りの貢献をしたい」
「望まぬ実業界の合間に、せめてものやりがいを見出したい」
そんな思いが強くあったのでしょう。
晩年の敬三は思い出を語り、常一がノートに書き記すことが日課になっていました。
ある日も常一が同じように書き取ろうとすると、敬三は静かに涙を流していたといいます。
★
渋沢家に生まれたばかりに、望まぬ生涯を送ることになってしまった敬三。
しかし、彼が研究者ではなく資本家になったことで、より多くの研究が報われたのも事実。
世間的には偉大な事業を残した渋沢栄一ですが、一番身近な孫が涙を流さざるを得なかった生涯に、世の中の無常を感じてしまいます。
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文:とーじん
【参考文献】
渋沢栄一記念財団編『渋沢栄一を知る事典』(→amazon)
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
渋沢敬三アーカイブ「渋沢敬三について」(→link)
渋沢栄一記念財団「渋沢敬三没後50年」(→link)
国際留学生協会「渋沢敬三」(→link)
日本常民文化研究所「渋沢敬三とアチック・ミューゼアム」(→link)
他