一説には「100人以上の子供がいたのでは?」とも噂され、最近では「結婚式のご祝儀に新一万円札は使えない」という話題まで巻き起こる渋沢栄一。
彼の一族には正当な親族を主張する【渋沢同族会】があります。
とにかく子供が多すぎて、全国どこに散乱しているかわからず、何か規定でもしておかないとトラブルが起きるんですね。
実際、渋沢家では廃嫡騒動が勃発したこともあります。
渋沢栄一の次男であり後継候補とされていた渋沢篤二が女性関係や素行の悪さを咎められ、渋沢家を廃嫡させられたのです。
結果、跡継ぎは、篤二の息子である渋沢敬三へ。
昭和7年(1932年)10月6日が命日である渋沢篤二の身に、いったい何が起きていたのか。
振り返ってみましょう。
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四男・渋沢秀雄
渋沢栄一は、人当たりがよく、政財官と関わりがあり、福祉や教育にも関わっていました。
様々な場所で講演を行い、『論語』を基にした倫理観も説く――世間的には大人(たいじん)の風格という人物。
しかし、それはあくまでイメージ戦略。
妻子からすれば別の顔があります。
女狂いの一面ですね(以下はその関連記事です)。
女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル!大河ドラマで描けなかったもう一つの顔
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夫との別居期間が長く、かつ志士の妻として矜持があった渋沢千代は夫の行動に耐えることができた。
しかし明治以降に出会った女性たちは変わっていきます。
プロテスタントの影響とか、西欧を意識した倫理観が形成されたためでしょう。かつて諦めるほかなかった夫の女遊びに、妻子たちは不満を感じるようになっていくのです。
世間的には偉大な人物面をしているけれど、家では妾を囲い、別の妾宅にも出かけてゆく。
そんな渋沢を後妻の兼子はこう皮肉りました。
「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」
誤解なきよう申し上げておきますが『論語』が女遊びを推奨しているワケありません。
『聖書』よりは厳しくないよね?といったイメージからの発言でしょう。
そもそも渋沢が『論語』に精通していてかどうかも疑わしく、その詳細は以下の記事に譲って先へ進みましょう。
本当は怖い渋沢栄一 テロに傾倒し 友を見捨て 労働者に厳しく 論語解釈も怪しい
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まずは渋沢栄一の四男・渋沢秀雄に注目。
まだ若い少年時代には、父の裏表ある姿にムッとしていた秀雄も、経年経験と共に考え方が変化します。
秀雄自身が柳橋の芸者と遊ぶようになると「男とはこんなものだ」と父を理解するようになったようで。
『論語』「子罕」を引用し
吾未だ徳を好むこと、色を好むが如する者を見ざるなり。
私はまだ、徳を好むことを、色事のように熱心に好むを見たことがない。
秀雄はこれを曲解し「父は、色を好む程度に徳を好んだ人」と評しています。
物は言いようとはこのことかもしれません。
後継候補だった渋沢篤二
人が成長し、世の中のことを冷静に学べるのは結構なことです。
しかし、渋沢家には遊興を好みすぎて道を踏み外した者もいます。
栄一にとって、夭折した子を除くと長男となり、後継と期待された篤二です。亡くなった妻・千代の忘れ形見でした。
明治15年(1882年)に母の千代を失ったとき、明治5年(1872年)生まれの篤二はまだ幼い少年。
千代の死後、栄一は早々と再婚し、妾・くにも同居していました。
そうした家庭環境もあってか。篤二は姉である歌子(栄一の長女)の結婚相手である穂積家に預けられました。
つまり姉夫妻に育てられたのです。
亡き母の形見である弟を、歌子は熱心に育てたのでしょう。篤二は明治らしい西洋由来の特技も身につけ、感情豊かな少年に育ってゆきます。
しかし……。
こう評されるようにもなっていました。
「“風流才子”(風流で才能あふれる人物)と“蕩児”(軽薄な遊び人)は紙一重というが……」
篤二もまた、友達と連れ合い、芸者がひしめく柳橋界隈に出入りするようになったのです。
酒と女と大志が渦巻く青春は、それこそ父・栄一が京都で送ったものと似通ってはおります。
しかし、幕末と明治では倫理観が異なります。
渋沢家は明治24年(1891年)に【渋沢家家訓】を制定。こう記されました。
子弟には卑猥なる文書を読ましめ、卑猥なる事物に接せしむべからず。また芸妓芸人の類に近接せしむべからず。
簡単に言えばこうです。
エロ本読むな!
エロに近づくな!
芸妓や芸人も近づいちゃダメ、絶対!
うーん……それを渋沢栄一が言えた義理なのか……。
苦言の一つでも申し上げたくなりますが、栄一にしてみれば、自分なら遊んでもどうにかリカバリーできたけど、我が子では無理とでも思っていたのですかね。
兎にも角にも、篤二の将来には黒い影が忍び寄っていくのでした。
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