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【渋沢篤二】
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嫡子vs庶子で割れた渋沢家
明治25年(1892年)、芸者のもとに入り浸る篤二は、熊本第五高等学校を退学させられました。
表向きは病のためとされますが、遊興を断ち切るための強硬策。
かくして篤二は血洗島で強制謹慎させられます。
その後、公家出身の橋本敦子と結婚させられ、子も生まれ、落ち着いたかのように思えました……が、そうはなりませんでした。
明治44年(1911年)、新橋芸者の玉蝶に惚れこんだ篤二は、正妻を追い出し、彼女を家に入れると言い出したのです。
渋沢家は大いに揉めました。
家はまさに真っ二つ。
「そのくらい許してもよいではないか」
そう庇ったのは、非嫡出の男子たち。
「絶対に許さない!」
そう怒ったのは、嫡子であり篤二の姉たちでした。
歌子は、自ら育てた弟の不始末に、怒り心頭だったのでしょう。『亡き母に申し訳ない』という気持ちがあったことも考えられます。
両派の争いは過激化してゆきました。
篤二の遊びを支持する側は、ドンチャン騒ぎをして相手の神経を逆撫でするようなことをするのです。
嫡子派と庶子派が真っ二つ。
もはや栄一に打つべき手はありません。
明治45年(1912年)、篤二を廃嫡とすることで、事態の収拾は計られました。
渋沢栄一と北里柴三郎の共通点
篤二は風流を好む粋な人物です。
父と同じ幕末に生まれていれば、三味線を抱えて京都で浮名を流し、名を残せていたかもしれません。
しかし、時間の転変は時に残酷なもの。明治にあっては人倫にもとる人物とされます。
嫡子と庶子の対立に巻き込まれなければ、こうまで厳しい処断はなかったかもしれません。
渋沢栄一という、色の面でも豪快であった父のもとには、犠牲となった子もいました。
そのことを大河ドラマ『青天を衝け』でじっくり描かれるとは思いませんが、必ずしもよい夫、そして父ではなかったことは、把握しておいてもよいのではないでしょうか。
奇しくも新札の顔に選ばれた男性二人、渋沢栄一と北里柴三郎には共通点があります。
倫理ある紳士という顔を見せつつ、性的な行動での逸脱が多かったこと。
マスコミにとっては格好のスクープ種であったこと。
そして、本人のみならず子息もその傾向があったことです。
これも時代の為せることかもしれません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon)
土屋喬雄『渋沢栄一』(→amazon)
他