西郷四郎

西郷四郎(左)と会津藩家老だった西郷頼母/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

満身創痍の会津藩に生まれた西郷四郎~軍人の夢敗れて伝説の柔道家に

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
西郷四郎
をクリックお願いします。

 

お好きな項目に飛べる目次

講道館四天王に

講道館――。

それは、柔道館のレジェンドこと嘉納治五郎が、当時始めたばかりの柔道場でした。

嘉納治五郎
日本柔道の祖・嘉納治五郎がオリンピックに賭けた情熱 77年の生涯

続きを見る

嘉納治五郎というのは日本の近代スポーツ界の巨人であり、日本初のオリンピック選手・金栗四三を見いだした人。

大河ドラマ『いだてん』では、三島弥彦田畑政治らと共に主役を張る人物ですね。

18才で柔術を学び、才能と努力のかいもあって、名人となります。そして若くして、講道館を始めたのでした。

金栗四三
日本初の五輪マラソン選手・金栗四三~箱根駅伝など生涯92年の功績

続きを見る

三島弥彦
日本初のオリンピック短距離選手・三島弥彦~大会本番での成績は?

続きを見る

田畑政治の生涯 いだてんもう一人の主役とは?【東京五輪前に辞任】

続きを見る

その講道館、七人目の入門者が、この薄汚い子供でした。

四郎は入門に際して印鑑ではなく、血判を推しました。

印鑑すら持たない子供だったのですから、応対した側も戸惑ったと思います。

なんせ訛りも強い。

意思の疎通には筆談が必要だったほどです。

しかしこの小柄な少年、いざ柔術の稽古を初めてみると、身体能力のすさまじさがあらわになりました。

床に指がねばりつくような脚さばきは、まるで蛸。

幼い頃、船の上で仕事をしていて身につけた動作とされています。

小柄で敏捷な様子は、まさに猫。

相手から投げられてもくるりと回転して、そのままかわしてしまうことすらありました。

治五郎と四郎が二人きりで、寒い早朝でも稽古に励むこともよくありました。

入門したてでありながら、負けん気の強さで厳しい特訓にもついていったのです。

まさかあの、酷い訛りで何を話しているかもわからないような少年が、これほどまでに天性の逸材であったとは……。

治五郎の教えのもとその才能を開花した四郎は、いつしか「講道館四天王」のひとりに数えられるようになるのです。

 

伝説の「山嵐」とは

明治18 年(1886年)。

伝説の一戦が行われようとしていました。

警視庁武術大会です。

全国各地から剣道、柔術の猛者が集うこの大会は、どの流派が日本の頂点に立つのがふさわしいか、それを決める一戦。

会場には、ひときわ小柄な姿がありました。

当時の男性の平均身長は158センチですから、四郎はそれよりもさらに小さいのです。

このとき、四郎と対戦したのは、戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎説も)でした。

小兵の四郎がすさまじいスピードで技をしかけます。

――敵の懐に飛び込み、敵の脚を払い上げると、敵の体はかるがると四郎の体を飛び越え、バーン!――

こうして書いてみると何がなんだかわかりませんが、見る方もそうかもしれません。

さほどに電光石火の早業であったのです。

「むむむむッ! なんだあの技は……」

「講道館おそるべし……」

その鮮やかさに一同皆驚きました。

小柄で体が柔らかい四郎の動きは、しかしながら豪快で、見る者を驚かせ、まさに伝説となったのです。

あまりの強さに、こんな風に言われたほどだったとか。

「寄るな触るな西郷四郎

そしてこの大会で、あまりに講道館出身者の強さが際立ったため、警視庁に正式採用されることにります。

このとき四郎が使ったのが、後に

「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」

と呼ばれるほどの技「山嵐」でした(参照:柔道チャンネル)。

 

実は「山嵐」は一時期技から削除されました。

あまりに伝説的で、かつ四郎をモデルにした小説『姿三四郎』の人気が高まりすぎたため「フィクションにしか存在しない技」として認知されてしまったのです。

技の仕組みは、背負い投げと払い腰をあわせたような、かなり特殊なカタチ。

決まりにくいため実戦ではあまり使用されない、まさに「幻の技」です。

西郷四郎のみ使用可能とされることもありますが、そうではありません。

公式試合で決めるのはほぼ不可能なほど難しいため、そんな伝説が生まれてしまったようです。

※続きは次ページへ

次のページへ >



-明治・大正・昭和
-

×