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【西郷四郎】
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講道館四天王に
講道館――。
それは、柔道館のレジェンドこと嘉納治五郎が、当時始めたばかりの柔道場でした。
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嘉納治五郎というのは日本の近代スポーツ界の巨人であり、日本初のオリンピック選手・金栗四三を見いだした人。
大河ドラマ『いだてん』では、三島弥彦や田畑政治らと共に主役を張る人物ですね。
18才で柔術を学び、才能と努力のかいもあって、名人となります。そして若くして、講道館を始めたのでした。
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その講道館、七人目の入門者が、この薄汚い子供でした。
四郎は入門に際して印鑑ではなく、血判を推しました。
印鑑すら持たない子供だったのですから、応対した側も戸惑ったと思います。
なんせ訛りも強い。
意思の疎通には筆談が必要だったほどです。
しかしこの小柄な少年、いざ柔術の稽古を初めてみると、身体能力のすさまじさがあらわになりました。
床に指がねばりつくような脚さばきは、まるで蛸。
幼い頃、船の上で仕事をしていて身につけた動作とされています。
小柄で敏捷な様子は、まさに猫。
相手から投げられてもくるりと回転して、そのままかわしてしまうことすらありました。
治五郎と四郎が二人きりで、寒い早朝でも稽古に励むこともよくありました。
入門したてでありながら、負けん気の強さで厳しい特訓にもついていったのです。
まさかあの、酷い訛りで何を話しているかもわからないような少年が、これほどまでに天性の逸材であったとは……。
治五郎の教えのもとその才能を開花した四郎は、いつしか「講道館四天王」のひとりに数えられるようになるのです。
伝説の「山嵐」とは
明治18 年(1886年)。
伝説の一戦が行われようとしていました。
警視庁武術大会です。
全国各地から剣道、柔術の猛者が集うこの大会は、どの流派が日本の頂点に立つのがふさわしいか、それを決める一戦。
会場には、ひときわ小柄な姿がありました。
当時の男性の平均身長は158センチですから、四郎はそれよりもさらに小さいのです。
このとき、四郎と対戦したのは、戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎説も)でした。
小兵の四郎がすさまじいスピードで技をしかけます。
――敵の懐に飛び込み、敵の脚を払い上げると、敵の体はかるがると四郎の体を飛び越え、バーン!――
こうして書いてみると何がなんだかわかりませんが、見る方もそうかもしれません。
さほどに電光石火の早業であったのです。
「むむむむッ! なんだあの技は……」
「講道館おそるべし……」
その鮮やかさに一同皆驚きました。
小柄で体が柔らかい四郎の動きは、しかしながら豪快で、見る者を驚かせ、まさに伝説となったのです。
あまりの強さに、こんな風に言われたほどだったとか。
「寄るな触るな西郷四郎」
そしてこの大会で、あまりに講道館出身者の強さが際立ったため、警視庁に正式採用されることにります。
このとき四郎が使ったのが、後に
「西郷の前に山嵐なく、西郷の後に山嵐なし」
と呼ばれるほどの技「山嵐」でした(参照:柔道チャンネル)。
実は「山嵐」は一時期技から削除されました。
あまりに伝説的で、かつ四郎をモデルにした小説『姿三四郎』の人気が高まりすぎたため「フィクションにしか存在しない技」として認知されてしまったのです。
技の仕組みは、背負い投げと払い腰をあわせたような、かなり特殊なカタチ。
決まりにくいため実戦ではあまり使用されない、まさに「幻の技」です。
西郷四郎のみ使用可能とされることもありますが、そうではありません。
公式試合で決めるのはほぼ不可能なほど難しいため、そんな伝説が生まれてしまったようです。
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