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【最後の箱根駅伝・幻の第22回大会】
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箱根路を走れる! しかし選手たちは苦しく……
その年の秋、箱根を走れると聞いてランナーたちは喜びました。
しかし、多くの大学が選手集めに苦労しました。
集めようにも、多くのランナーたちが、既に戦地に送られていたのです。出場経験のある大学でも、参加を見送らざるをえない場合が多数ありました。
やっと参加した大学も、短距離走や投擲競技といった別競技の選手をかきあつめ、準備も練習もろくにできないような状況。
物資が統制され、食料はおろか暖房もないような中で、彼らは練習を続けたのです。
不足した栄養を補うため、栄養剤を注射した学校もありました。
練習期間が限られ、カロリーすら十分に摂取できない中、どれほど厳しかったことでしょう。
それでも彼らは箱根を駆ける喜びのために、鍛錬に励んだのです。
昭和18年1月5日
昭和18年(1943年)の元旦、箱根は曇り空でした。
冬らしい暗い空からは、雪がちらついていました。
そして1月5日――。
大会当日は快晴。参加できたのは11校のみ。
伴走自動車は禁止され、自転車やサイドカーのみが許可されました。
朝七時半、選手たちは全員靖国神社に参拝します。ミッション系の学生もおり、誰もが複雑な胸中だったことでしょう。
参拝後、選手たちはトレーニングウェア姿となり、スタート地点に立ちました。
長距離ランナーは小柄で細身であることが多いものですが、がっちりとした大柄な選手も混じっていました。
前述の通り、投擲選手も参加していたからです。
駅伝初参加という選手もいました。
彼らの顔は神妙な面持ちでした。
この大会を最後に死ぬ覚悟を固めた者もいれば、出征したチームメイトに捧げる気持ちを持つ者もいました。
「ヨーイ、ゴ−!」
合図とともに、選手たちは飛び出しました。
寒空の中、栄養すらろくに取れない、練習すら満足にできない、死の予感すら隣り合わせの選手たち。
それでも走り出した彼らの胸には、駆け抜ける爽快感と喜びがあふれたのです。
箱根路のドラマ
しかしスタートして、いったん走り出せば、そこにあるのは箱根駅伝のドラマでした。
走った者しかわからない、特別な大会。
毎年正月に繰り広げられたあのドラマが、昭和18年の新春にも繰り広げられます。
全力で走れた者。
ペース配分に失敗した者。
追い抜く者、追い抜かれる者。
山を登り、坂を下る。
抜きつ抜かれつのドラマが、この年も繰り広げられました。
沿道につめかけた応援の人々も、この日ばかりは戦時下の暗い世相を忘れ、歓声を送ります。
伴走する車も、大変です。
木炭車や自転車では思う様に併走できません。何台もの木炭車が途中で止まってしまいました。
レースは日本大学、慶応大学、法政大学の三つ巴の争いとなりました。
ゴールもスタートと同じ靖国神社です。
激しい争いを繰り広げながら、最後のたすきを受け取った選手たちは、ゴールを目指しました。
真っ先にゴールしたのは……日本大学でした。
二位が慶応大学、三位が法政大学。
参加した11大学が、見事最後までたすきを繋いだのでした。
このときの大会は、チームメイトだけではなく、参加者全校の選手がゴールした選手を出迎えました。
最下位の青山学院大学は首位から3時間近く遅れ、日没近くになってゴールしています。
沿道の人々はそれでも歓声を送っていました。
ゴールでは皆があたたかく迎えました。
興奮と感動の最中、選手も監督も、皆ある予感を抱いていました。
これが最後の箱根ではないか――。
この大会が、戦前における日本陸上競技最後の、沈む夕陽の輝きであることを、皆が予感していました。
そしてその予感は当たりました。
出場選手たちは、その年10月には学徒出陣兵として、戦場へ送り込まれます。
そして箱根駅伝大会は、昭和22年(1947年)まで再開されなかったのでした。
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