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【牧野富太郎】
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東京で研究生活を始める
いざ上京した富太郎は、帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)植物学教室の矢田部良吉教授を訪れました。
高知の田舎からやってきたこの青年を、矢田部は受け入れました。
夢のような文献と資料。
その使用を許可された富太郎は研究に没頭し、持ち前の才知をみせ、助手として頭角を表します。
飯田町の下宿先は、採取した植物や新聞紙で泥まみれになり、「狸の巣」と呼ばれるように。
こうして東京で研究に没頭する富太郎ですが、故郷の佐川と縁が切れたわけではありません。
牧野富太郎を扱うドラマ等では、あまり出てこない人物に注目しますと……。
故郷には、最初の妻・猶(なお)がおりました。
師範学校を卒業し、よく店を手伝っていたという猶。
佐川で妻を娶っていた富太郎は、本来なら家業を継ぐ運命そのものだったのです。
しかし、この最初の妻について富太郎は全く語り残していません。
結婚そのものを過ちであると考えていたのではないでしょうか。
猶個人に問題があるのではなく、佐川で豪商の主人となる運命そのものを拒否したともいえます。
猶との結婚は数年後には解消していて、その経緯はハッキリとしません。
佐川には、当時高級であったオルガンを寄贈するなどの貢献もしていました。
しかし、明治20年(1887年)に祖母の浪子が亡くなると、活動拠点を完全に東京へシフトします。
明治20年(1887年)、25歳の富太郎は、教室が同じ研究者同士で『植物学雑誌』を創刊しました。
日本有数の歴史を持つ学術雑誌で、現在は電子版も公開。
◆日本植物学会(→link)
富太郎と仲間たちは『日本植物誌図篇』を第6集まで刊行していました。
スケッチの才能、観察眼、知識欲。
富太郎の才能が光る力作と言えます。
さらには明治22年(1889年)、27歳で新種の植物を発見し、『植物学雑誌』に発表するなどして研究に打ち込んでいたばかりでなく、その前年には運命的な出会いもありました。
寿衛子と出会い、結婚
明治21年(1888年)のこと。
酒も煙草も好まず、甘いものが好きだった富太郎には行きつけの菓子店がありました。
そこである美しい女性を度々見かけるようになります。
甘いものを食べることより、いつしか彼女を見つめることが目的となった富太郎。
いざ、恋を告げようとすると真っ赤になって何も言えなくなってしまう……。
そこで彼は、知人と女性の母親を介して、相手の人となりや意思を確認するというヤリトリを進め、ついに結婚へこぎつけました。
「わが初恋」――26歳での出会いを、そう振り返る富太郎。
相手の女性・寿衛子はまだ18歳であり、後に富太郎は、自らが発見した笹を「スエコザサ」と名付けました。
それほどまでに妻を愛したのです。
朝ドラ『らんまん』でのヒロインは、“寿恵子“という名で、渡辺美波さんが演じます。
明治23年(1890年)、28歳の富太郎はムジナモを発見するなどして研究は順調であり、私生活でも寿衛子と結婚。
結婚式はごく内輪で行われ、新婦側は出席しませんでした。
豪商である新郎側と、女手一つで菓子店を営んでいた新婦側には、身分の差があったと推察できます。
そんな身分の差を乗り越えていたからこそ、寿衛子は夫を敬愛したのかもしれません。
まだ幼いところもあり、ちょっと品の悪いところはあったけれども、寿衛子は富太郎にとって最愛の妻でした。
しかしこの夫妻も、貧困と直面してしまいます。
結婚と同年、富太郎の上司筋である矢田部良吉がこう告げてきたのです。
「今後は自分が本を作るから、研究室の資料は閲覧しないでくれ。もう研究室には出入りしないように」
突然の宣告に、富太郎は絶望し、激怒しました。
『何があった? 自分が一体何をしたというのだ?』
個々に話を聞けば、互いに正当な理由ぐらいあるでしょう。
問題は、富太郎がルールに無頓着で、あまりに奔放な性格だったことです。
良吉に日頃から小さな不満が重なり、例えば借りっぱなしの本が戻らない……なんて違和感が募り、相手が限界に到達したのかもしれません。
ただでさえ湯水のように研究費を使い、家計のことなど顧みない富太郎は、ロシア亡命計画も真剣に考えました。
『日本植物志図篇』は、ロシアの植物学者・マキシモヴィッチから賞賛されていたのです。
彼ならば自分の業績を理解してくれるかもしれない。そう思いつめていました。
富太郎はマキシモヴィッチと文通し、交流を深めていました。
しかし明治24年(1891年)、マキシモヴィッチがインフルエンザで亡くなってしまい、計画は白紙に。
ますます絶望感の募る富太郎。
すると彼の情熱を理解する友人の推薦により、駒場にある農科大学(現・東大農学部)で研究を続けることになったのです。
同時に、悲劇的な事態が富太郎に襲いかかります。
豪商であった実家が傾き、送金が絶えてしまったのです。
実家整理のため富太郎は佐川に戻りました。
すると、その直後、長女の園子が亡くなったという訃報が届けられ、実家を片付け、東京へ急ぐ富太郎でした。
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