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【パンダの歴史】
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アメリカに訪れた世界初のパンダブーム
当初は狩りの獲物として見られていたパンダ。
それが可愛い存在となったのはいつのことなのか?
1936年、女性探検家ルース・ハークネスがアメリカに生きたパンダのスーリンを持ち帰りました。
そして翌年、生きたまま公開すると……。
かわいい!
と、全米が感激し、世界初のパンダブームが起きました。こうなると他の動物園も熱い眼差しを注ぐようになり、パンダは狩りの対象から生きて持ち帰る時代に入ります。
アメリカだけじゃありません。
世界各国で、パンダというカワイイ動物が中国にいることに気付きます。
しかしその時代は、戦争の世紀の始まりでもありました。
そう。パンダは発見のタイミングから、政治を背負う宿命にあったのです。
その一例が蒋介石夫人の宋美齢です。
日中戦争の時代を迎えると、彼女はアメリカにパンダを贈呈する平和外交を展開。
平和の象徴として米メディアでも歓迎され、外交政策において重要な意味合いを持つようになりました。
敵対していた日本のメディアは、その怒りをパンダにまで向け、「あんな醜い獣の何がよいのか!」と貶していたこともあります。
第二次世界大戦の終結後、中国の国共内戦において共産党が勝利をおさめると、敗れた国民党は台湾へ。
こうなると本土の四川省にしかいないパンダは、共産党のものとなります。
冷戦開始のタイミングで、パンダは共産主義に組み込まれました。
1957年、ソビエト連へのパンダ贈呈は、まさしくその象徴ですが、ことはそう単純でもありません。
1960年代には中国とソ連との間に対立が生じる。
一方で、アメリカはじめ資本主義の国々も、やっぱり、あの可愛い動物に来て欲しい。
かくしてパンダは外交の使者として、ますます重責を担っていくことになったのです。
日本、パンダにラブコールを送る
日本人も、パンダが大好きですよね。
強烈なパンダ愛で知られる著名人と言えば、黒柳徹子さんがいます。
黒柳さんが語るパンダの思い出は、歴史と噛み合っています。
幼い彼女にアメリカから叔父がパンダのぬいぐるみを買ってきたことがきっかけだったとか。
◆日本パンダ保護協会 黒柳徹子名誉会長からのメッセージ(→link)
なぜ彼女の叔父がそうしたのか。
世界初のパンダブームに乗って、グッズも作られていた世相が見えてきます。
かくしてパンダと出会った黒柳さんは、ご存知のとおりテレビの黎明期から活躍をはじめ、日本では知られてなかった可愛いその動物の魅力を伝える役割を果たしてきました。
不幸な戦争を経て、隔絶されてしまった日中間――その国交が結ばれる前夜、日本では中国への理解を深めようという試みがなされていました。
一例が1971年に連載が開始された横山光輝『三国志』です。これぞ日中関係の象徴ともいえます。
かつて、ベストセラーとなった吉川英治『三国志』は、日中戦争時代という背景も影響を与えていました。戦争で支配する中国に親近感を抱かせる役割も担っていたのです。
中国を進軍する兵士が『三国志』を読み、ロマン溢れる古戦場を訪れ、英雄と己を重ね戦意を昂揚させる。そんな役割を担っていました。
そんな不幸な時代は過去のものとせねばならない。
“横光三国志”は、子供たちが楽しみながら中国を理解できる役割を果たすべく、世に出されました。
あの作品は日中友好を担う特別な作品でもあるのです。
不朽の名作『横光三国志』はいわば日本の町中華? その成立を考察してみた
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こうした古典への憧憬だけでなく、斬新な動物・パンダも日中友好の役割を大きく担いました。
ニュースだけでなく、漫画雑誌やアニメ映画に登場し、子どもたちの興味をそそる。
1971年、昭和天皇が訪欧の際にパンダを見学し、それが報道されると日本はまたも沸き立ちます。
そして1972年――日中共同声明の調印後、記者会見で待望のニュースが披露されました。
カンカンとランランの雌雄一対が日本に贈られると発表されたのです。
上野動物園で公開されるとたちまち人々が押し寄せ、「2時間並んで50秒しか見られない」と悲鳴が上がるほどの人気ぶりでした。
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