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【網走監獄(網走刑務所)】
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「囚人道路」開削で亡くなった人々
広大な北海道を開拓するためにも、道路の開通は必須――明治20年代の明治政府は、そう思い始めました。
使える人員は、過剰労働で死んでもよい囚人です。
明治23年(1890年)3月、北海道庁は網走から石狩・北見へ通る中央道路の建設に着手。
労働に従事させる囚人を収容するため、釧路監獄署内では囚徒外役所を作ります。
網走監獄の始まりでした。
この道路は一年間で160キロにわたり建設し、犠牲も出ました。
足に逃亡防止の足かせをつけたまま働く中、死者は実に200名以上。
怪我人や栄養失調に陥る者も多数出ております。
旭川の発展をもたらした『上川道路』
札幌と旭川を結ぶ道路脇には…おびただしい死体が埋まっている
ヒグマと狼に怯えながら寒さと飢えに苦しみ死んでいった囚人たちだ
『ゴールデンカムイ』で、土方歳三がこう述べた上川道路は、明治19年(1886年)から建設が始まっています。
彼の言葉通り、ヒグマや狼、そしておびただしい害虫に襲われながら、囚人たちは斃れいったのです。
死んでもともと。死んでよし。
そう思われていたのか、死者の数すらハッキリしないほどです。
それでも「タコ部屋労働」が残った
こうした粗悪な労働が、問題視されなかったわけではありません。
明治27年(1894年)。
囚人使役は国会で追及されて廃止。
大正11年(1922年)になって網走監獄は網走刑務所と改称さます。
昭和58年(1983年)の全面改装工事に伴い、旧刑務所は観光施設(博物館 網走監獄→link)となりオープンしました。
それでは北海道がこうした違法労働から解放されたのか?と言いますと、答えは否です。
「タコ部屋労働」という劣悪極まりなく、非人道的な労働が残されたのです。
朝鮮半島等から来た外国人、騙された人々。
そういった人々が、「タコ部屋」と呼ばれる場所にとらわれ、終わることのない労働を強制されました。
体調不良で倒れてもろくに治療も受けられず、過酷な労働で死体となる者も多数いました。
そうした労働による施設が、北海道に残されたのです。
北海道の人々は、こうした事態を黙視していただけではありません。
『ゴールデンカムイ』作中では、12巻収録の118話に発登場した石川啄木。
新聞記者の石川に、土方は世の中を動かしてもらうべく、記事の執筆を頼んでおりました。
石川は人としてそれはどうなのよ、とツッコミ満載の逸話が多い人物。『ゴールデンカムイ』でも、白石と遊郭で遊んでいる姿が印象的です。
しかし彼は、断じてそれだけの男ではありません。
会主義に傾倒しており、労働者の劣悪な環境といった問題に興味関心があったのです。
土方が、この者ならば虐げられた人々を取り上げるだろうと睨むのも無理はありません。
北海道出身の文人には、石川のように劣悪な労働を問題視する人が出ております。
プロレタリア文学の代表作家・小林多喜二もそうです。
代表作『蟹工船』は、タコ部屋労働である博愛丸事件をモチーフとしていました。
※タコ部屋労働を描いた『蟹公船』
北海道には、広大な大地があります。ロマンを感じる方も多いことでしょう。
しかしその発展のため、おびただしい犠牲が出たことも、忘れられることはできないはずです。
鶴見率いる第7師団に蹴散らされた網走の囚人たち。
彼らも歴史の犠牲者と言えるのです。
北海道の痛み、苦しみ。
そこまで垣間見える傑作が『ゴールデンカムイ』(→amazon)です。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
山本博文『あなたの知らない北海道の歴史 (歴史新書)』(→amazon)
北国諒星『歴史探訪 北海道移民史を知る!【HOPPAライブラリー】』(→amazon)