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【アイヌ差別の歴史】
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彼らは異民族か? 同じ民族か?
ロシアが蝦夷地に接近し始めた江戸後期。
このころになると日本も外国船の接近を感じるようになります。
そんな中、国学者は『蝦夷地に住むアイヌの人々は何者なのか?』と考えるようになります。
賀茂真淵は、蝦夷地を訪れた商人を自宅に招き、「蝦夷之噺し」の会合を開きました。
彼はアイヌを中国北部の民族とも交流のある、どこかドラマチックでエキゾチックな、和人とは別の民族であるととらえました。
延享3年(1746年)にエミシとエゾを同一視した歌を『翁家集』に掲載しています。
この歌はロマンチックなもので、アイヌへの憧れすら感じます。
ルールに縛られる和人より、自然と気ままに生きている彼らに憧れる言動も、見られるようになったのでした。
しかし、アイヌをロマンチックに見ているから差別的ではないとは言えません。
こうした別の民族や人種に、過剰な美化やロマンチシズムを感じることは「エキゾチシズム」と呼ばれ、時に差別的な扱いにつながりかねません。
本居宣長は、1767年(明和4年)から三十年にかけて書き綴った『古事記伝』にて、エミシとエゾを同一視した論を展開しました。
この論は現在否定されておりますが、それが確定するまで長い時間がかかっています。
本州に住み続け、学究に尽くした国学者の間で、実体を伴うアイヌ像は展開されませんでした。
彼らの中で、アイヌとはエミシ。
つまり異民族であり続けたのです。
この国学は、幕末にかけて明治維新を成し遂げた者たちにも、強い影響を与えています。
一方、最上徳内ら幕命を受けて蝦夷地に渡った和人は、全く異なる結論に至ります。
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1786年(天命6年)、彼らが幕府に提出した報告書は以下のようなものでした。
女性はお歯黒をせず、口の周りに刺青を入れている。
男性は毛深い。
髪の毛を結うことはなく、長髪のまま。
服飾や習慣は異なることが多いものの、カムイと呼ぶ神に信仰を捧げる人々で非敬、仁愛、礼儀も厚い――。
【異形に相見え候らえども、何にても、日本人に相替わり候儀ござなく候。】
そんな風に分析していたのです。
そこには大和朝廷以来の、異民族を討つべしという思想は見られません。
フィールドワークを通じ、習慣は違うけれども同じ人間なのだから、仲良くできるはずだという、そんな考えすら感じさせるものなのです。
こうしたアイヌと和人を同じ民族であるという論は、「和夷同祖論」と呼ばれます。
最上は、アイヌの人々を「土人」と呼びました。
蔑称を込めたものではなく、むしろその土地に暮らす土着の人という、親しみをこめたものとして使っていたようです。
そうはいえども、朝廷や都で暮らす人は「土人」とは呼ばれません。
中央から遠い地方に住むという、蔑称的なニュアンスが含まれる名称であることは、留意すべきでしょう。
蝦夷人から土人へ
アイヌのことが和人側の公文書で「土人」と呼ばれるようになったのは、1855年(安政2年)からです。
それまでは蝦夷人・夷人・蝦人と記載されていました。
黒船来航から2年後。
ロシアの脅威が北から迫る中のことです。
蝦夷地に住む人々は異民族ではなく、日本に土着する人として扱うようになったわけです。
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日本とはどんな国なのか。
海外に対してどう立ち向かうのか。
そう意識したうえでの変更といえます。
明治維新後、アイヌの人々は他の和人と同じく、天皇の民であるとされました。
皆等しく「土人」と区別することはないとされたのです。
しかし1878年(明治11年)、開拓使は調査等の際にアイヌを旧土人と呼ぶよう、通達を出したのです。
当時は、世界的に見て先住民受難の時代でした。
岩倉使節団で渡米した日本人は、ネイティブ・アメリカンの受けている扱いに驚きました。
先に住んでいた日本人と同じアジア系民族が差別されることに、理不尽さと呆れるほどの感情すら抱いたものです。
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だからといって、自分たちはそうすべきではないとは、思わなかったのでしょう。
むしろ、西洋列強ですら平然と差別をするのだから、日本もそうすべきであると習ったのでは?とすら思われます。
当時は、偽科学的な人種差別論の時代でした。
優等人種と劣等人種は脳すら異なるから、優等人種が劣等人種を同化すべき――そんな現代からすればとんでもない思想がはびこっていたのです。
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結果、幕吏たちのフィールドワークに基づく探険記が忘れ去られ、西洋由来の差別的科学が、アイヌへの政策で用いられるようになりました。
その一方で、幕臣出身で北海道の官吏となった人の多くは、アイヌ政策の過酷さに抗議するように退職してしまいます。
北海道の名付け親とされている松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、1870年(明治3年)、北海道の明治政府の開拓の方針が受け入れられず、従五位の官位を返上して退官しています。
アイヌ政策において、彼らは折り合いがつかなかったのです。
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アイヌは同じ人だという理念は、明治政府にはありません。
和人と異なり、劣る旧土人なのだと見なします。
劣った旧土人なのだから、文明化のためにも同一化し、固有の文化や慣習を捨てさせよう――そうした考え方が、広がっていったのでした。
当時の世界には、こうした劣等人種は優等人種の観察の対象だとみなす考え方が蔓延していました。
その悪しき一例が「人間動物園」です。
異なる人種の人々を見世物と見なすこの会場に、アイヌの人々も立たされました。
アイヌの人骨が、動物のような観察対象とされたこともあります。
1995年(平成7年)には、北海道大学からこうした扱いを受けた人骨が発見(北大人骨事件)。
そうした一方、日本人とされたアイヌの人々は、時に戦場に立つこともありました。
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しかし、いくら戦場で活躍しようと、正当な評価を受けたとは言いがたいもの。
1899年(明治32年)には「旧土人保護法」が成立しました。
この法は、保護というよりも同化を求めるものです。
アイヌの文化や伝統を、同化という名の下に消し去ろうとします。
そして1997年(平成9年)に「アイヌ文化振興法」が成立するまで、百年にわたり、アイヌの人々を苦しめ続けたのでした。
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「私は気にしない 慣れてる」
というアシリパの言葉の背後には、当時の人種差別的な偏見に苦しめられてきた、彼女なりの体験がきっとあるのでしょう。
古代から、中央の朝廷に従うかどうかを求めて来た、和人のアイヌ像。
遠い島に住んでいるから野蛮で、中央に従うべきだと、アイヌの人々の自主性や気持ちを無視して考えてきた――そんな和人の認識がそこにはあります。
こうした認識の歴史をふまえると、杉元をならってこう言いたくはなりませんか。
慣れる必要がどこにある――。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
児島恭子『エミシ・エゾからアイヌへ (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
加藤博文/若園雄志郎『いま学ぶ アイヌ民族の歴史』(→amazon)