嘉納治五郎

嘉納治五郎(左は国立国会図書館蔵で右はwikipediaより引用)

明治・大正・昭和

日本柔道の祖・嘉納治五郎がオリンピックの誘致に賭けた情熱 77年の生涯とは

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稽古は、基本、体で覚えろ

さて、この天神真楊流の道場はなかなか荒っぽいものでして。

師匠の福田に投げ飛ばされた嘉納。

こう尋ねます。

「今の技はどう投げたのですか?」
「おいでなさい」

すると福田は、嘉納を掴んで投げ飛ばしたのです。

投げられた嘉納はまだ聞き返し……ということを繰り返す。

「聞いたところでわかりませんよ。ただ、数さえかければ出来るようになる。さあ、おいでなさい」

何度も何度も投げ飛ばされるのです。

稽古は、基本、体で覚えろというものでした。

 

稽古のあとは筋肉痛で体がギシギシと悲鳴をあげ、立ち上がることすらできない始末。生傷の絶えない肉体に膏薬を貼り付けて練習に励んだのでした。

当時、柔術は前述の通り文明開化のあおりで下火でした。

嘉納は友人を稽古に誘うものの、皆断るか、途中で辞めてしまう有様です。

そんな柔術界隈で、やる気と若さにあふれた嘉納は、メキメキと頭角を現します。

明治12年(1879年)7月には、あの経済人・渋沢栄一の依頼を受け、来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に披露する柔術演武に参加しました。

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古臭いとして武術は廃れていったが……

その後、嘉納は、師匠を変えながらも柔術を続けてました。

ただし、嘉納は柔術だけの男ではありません。大学で学業にも励むとともに、様々なスポーツにも挑戦しました。

当時伝わったばかりの野球等にも取り組んでいます。

が、結論は常に同じでした。

「うむ、柔術ほど鍛錬が気軽にできるものはない。やはり柔術を習って正解だ」

柔術の鍛錬は、精神的にもよいものでした。

生まれつき短気であった嘉納は、柔術を学ぶにつれ、穏やかで我慢強い性格になったのです。

「武術ほど、人の体力、知能、道徳を鍛えるものはない」

嘉納はそう確信を深めてゆきました。

文明開化以来、武術は古臭いものとして廃れていました。かつての剣豪たちですら、撃剣試合をして観客から日銭を稼ぐ始末です。

柔術は、素晴らしい。しかし、柔術のままでは、人の心をとらえることはできないのではないか?

嘉納は悩み、ある結論に達します。

 


「講道館」創設

「己自身の手でまったく新しい武術を始めよう!」

そんな大志を抱き、道場を開いた嘉納。

明治15年(1882年)、下谷北稲荷永昌寺に「講道館」という名の道場を開きます。

近代柔道の幕開けです。

柔術から柔道へ――意識を改革するため、嘉納はまず段位制導を導入しました。

講道館最初の門下生は、9名。

何度か道場の移転を繰り返しながら、嘉納以下、門下生たちは熱心に稽古に励みます。

次第に講道館の名は知られるようになり、入門者や試合申し込みも増えてゆきます。

明治22年頃に撮影された警視庁武術世話掛の写真。最前列左から2人目が、講道館四天王の一人・山下義韶/wikipediaより引用

そして明治19年(1886年)。

講道館道場は、警視庁の武術大会で制覇。

そのまま警視庁に採用されることになり、その名が全国に知れ渡っていくのです。

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