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【南樺太の歴史】
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樺太漁業の行き詰まり
「樺太に行けば、鮭が食い放題で金もごっそり稼げるぞ」
ヤン衆の中には、そんな業者の甘言に釣られ、親の目を盗み実印を押す若者もいたのだとか。
『ゴールデンカムイ』12巻収録第114話では、アイヌのコタン(村落)が飛蝗(こうがい・バッタなどによる災害)により大打撃を受けます。結果、コタンに住むアイヌのキラウシは、和人の元で出稼ぎをすることになりました。
当時は、北海道のみならず樺太でも、アイヌやニヴフといった原住民たちが漁場で出稼ぎをしていたのです。
ただし、出稼ぎ労働者としての生活はバラ色ではありません。
劣悪な条件と寒冷な環境で酷使され、脱走を起こす労働者もおります。
不衛生で医師もいない労働現場では、病人も続出。あまりに劣悪な食事のため、彼らの間では脚気が蔓延し、集団逃走がしばしば起こったほどです。
時代が降ると、彼らは逃走とは別の手段で訴え出ます。
雇用主に訴え出たのです。
「こんな劣悪な労働環境じゃ働けない!」
「何の実入りもないようなもんだ!」
訴えるだけではなく、事務所を破壊することも……こうした労働者の蜂起以外にも、問題がありました。
北海道のニシン漁は、あまりの乱獲が祟り、昭和を迎えた頃から急激に数が減っていきます。当時の北海道や樺太でも、さすがにこれはやり過ぎではないか、と不安視する声があったのです。
さらに杉元らが樺太に渡った明治40年(1907年)頃ともなると、肥料業界に変動が起こり始めました。
満州鉄道を用いて、満州から安価な豆粕が輸入され始めたのです。
化学肥料も増加しています。
肥料としての鰊粕は、重要性が低下してゆきました。
・出稼ぎ労働者の反発
・ニシンの枯渇警戒
・肥料としての鰊粕の地位低下
こうした条件が重なり、南樺太では“次の産業”が求められることになりました。
パルプ生産一大地
杉元らは旅の途中、樺太の森林を通ります。
ヒグマのみならず、クズリにまで襲われてしまう一行。あの描写を読んでいると、樺太やべえ、森怖え、と思ってしまいます。
しかし、この森林こそ樺太の資源でした。
樺太の原住民は森林と共生して過ごしておりました。
ロシアによる支配中も、せいぜい燃料にする程度しか、森林は伐採されてません。
そのため日本が南樺太を手にしたとき、広大な森林が残されておりました。
樺太庁は明治43年(1910年)に「林産物大口売払内規」、翌明治44年(1911年)には「樺太森林原野産物特別処分令」が施工されます。
樺太で森林を伐採し、パルプ生産を開始するということです。
当時は、時代の状況もこれを後押しします。
ヨーロッパを巻き込んだ第一次世界大戦による輸出増加。
関東大震災の復興需要。
時代の要請に応えたのが、樺太のパルプです。
王子製紙の工場は9カ所に及び、現代でも7カ所の跡地が確認できるほどの隆盛となりました。
なお、こうした林業等に従事する季節による出稼ぎ労働者は「ジャコジカ」とか「ジャコ」と呼ばれました。
アシリパの父・ウィルクも、かつてそう呼ばれていたことがのちに判明します。
皆さんのご想像どおり、こうした林業は、環境破壊をもたらしかねないものです。
伐採すれば、それまで覆われていた地面が露出し、どうしたって環境に影響を与えてしいまいます。
かくしてパルプ産業が始まってから、大規模な森林を枯らしてしまう虫害が発生。山林火災も起こりました。
樺太庁は森林保護対策を取りましたが、それでも盗伐、誤伐といった計画外の森林消費は防ぎきれません。
林業は、樺太経済の大動脈となりました。
環境保護が大事といえども、こうなってしまっては中々セーブが利かないものです。
長いこと人の手が入らなかった、樺太の森林や、その環境は、日本領となることで大きく変化してしまったのです。
またパルプ工場は、大量の電力も消費しました。
そうなると必要とされるものが、発電所とその燃料です。
大正2年(1913年)、パルプ生産と並行して、樺太での炭坑が開封。
それまで樺太の石炭は保護のため封鎖されていたのですが、パルプ工場の発展は、樺太での炭坑だけでなく鉄道網整備も進めることになりました。
魚を捕り、森林を伐採していた樺太の生活風景が一変し、鋼業と工業へと変貌していったのです。すると……。
戦時体制での苦難
パルプを生産し、石炭を掘り、日本の経済を支えた樺太。
しかしその扱いは、公正とは言いかねるものでした。
島民の参政権は認められず、投票できる範囲は町村制度のみです。
国の中央に樺太の声を届けるためには、他の地方から樺太事情に詳しい政治家が議員となることを応援するしかありません。
樺太は、内地(日本)と外地(本土以外の日本領土である朝鮮半島や台湾)の中間にある位置づけでした。
政府中央は、樺太の工業や資源を期待するものの、支援や投資は限られたものです。
「犠牲的精神で日本に尽くせ」という傾向で、中央から一段低い冷たい目で見られていました。
そんな樺太は、戦時中の昭和17年(1942年)内地に編入されることになる一方で、厳しい目が浴びせられます。
樺太では稲作が出来ず、輸入米に頼っておりました。
しかし、日中戦争、そして太平洋戦争が始まると、日本列島全体が食料難に陥ります。
樺太では、農業生産よりも手っ取り早く現金を得られる林業が発展しておりました。これを転換し、自給自足せよとの方針転換が迫られたのです。
エンバクのようなものを食べて生きてゆけ、と樺太の島民は勧められたのでした。
昭和15年(1940年)に赴任してきた長官・小河正儀は失言を連発しました。
「そもそも樺太では食料を消費しすぎである」
「よく噛めば半分の量で済む」
侮蔑的な言葉に、島民は反発を見せたのです。
こうした危機感の中で、樺太では食料増産、備蓄を進めました。
昭和20年(1945年)8月のソ連侵攻時、樺太には8ヶ月分の備蓄食料があったほど。食料不足への危機感が、こうした備蓄を生んだのでした。
林業も、戦時下では変貌します。
パルプではなく、針葉樹林から絞った針葉油が生産されるようになっていったのです。
石炭も増産され、本州へ運ばれてゆきました。
資源提供源として期待される一方で、食料すら自力でまかなうしかない――それが戦時下の樺太でした。
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