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【杉原千畝】
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積極的に救うとヤバい……許可しないこともない
カウナスは当時、諸々の事情でリトアニアの暫定首都になっていました。
が、日本人は一人もおらず、着任直後の杉原に「日本や日本人について教えてほしい」とインタビューをしに来るマスコミが多々いたとか。
とはいえ、第二次世界大戦、そしてヨーロッパ戦線といえばユダヤ人への迫害。
そして戦争につきもの避難民をなしに語ることはできません。
これは杉原の着任時点でも水面下で問題になっており、当時の外務大臣から「ユダヤ人を積極的に救おうとすると角が立つから、あくまで“避難民”と呼ぶように」、「わが国の本土や外地へ入るのは好ましくないが、通過は許可しないこともない」(意訳)といった指示が出されていました。
そんな中で、ユダヤ人を取り巻く状況は徐々に厳しくなっていきます。
当時のポーランドやリトアニアには有名なユダヤ教の学校があり、ヨーロッパ各地からユダヤ人が集まっていたため、真っ先に目をつけられるのは明らかでした。
また、母国がドイツへ降伏したために、知らない間に難民になってしまっている人もたくさんいたのです。
シベリア鉄道で逃げるためユダヤ人が押し寄せてきてた
彼らを救うべく、まずヤン・ズヴァルテンディクというオランダの領事が動き出しました。
「ユダヤ人はビザなしでオランダ領に行っても良い」という書類を作り始めたのです。
これを得たユダヤ人達は、当初トルコを経由してパレスチナに向かっていました。
が、トルコがユダヤ人の通過を拒否するようになると、このルートが使えなくなってしまい、ユダヤ人たちは再び危機に陥ります。
そこで、シベリア鉄道経由で逆方向に逃げるため、ユダヤ人たちは日本領事館を頼ってきたのでした。
午前六時ごろから、ビザを求める人々が杉原のいる領事公邸に押し寄せて来たということを、杉原は後々回想しています。
上記の通り、日本政府としてはユダヤ人の救済を積極的にするつもりはありませんでした。
しかし、現地や近隣の情報から迫害の状況を知っていた杉原は、命令に逆らってでもユダヤ人を救う道を選びます。
なんせ押し寄せるユダヤ人達は老若男女着の身着のままといった様相で、ざっと見えただけでも100人以上いたというのですから。
万年筆を握った腕は痛みで動かなくなる
日本政府としてもさすがに「送り返せ!」とは言っておらず、「日本経由でアメリカやカナダに行こうとする“リトアニア人”が多すぎるので、お金のある人以外は断るように」としていました。
それでも杉原はビザを発行し続けました。
当初万年筆を使って手書きで発行していたものの、そのうち痛みで腕が動かなくなり、ゴム印を使うようになっていたそうです。
そうして一ヶ月あまりに渡って2,000枚以上のビザを発行しましたが、当時リトアニアを支配していたソ連、そしてなにより日本政府から「はよ出て行け!!」という命令が再三にわたって届き、これ以上無視することはできなくなりました。
退去の日、ユダヤ人たちは杉原の姿が見えなくなるまで列車と併走したり、叫んでいたと言います。
当時のビザは一家族に一枚あれば充分だったので、仮に一家四人とすると、8,000人のユダヤ人が杉原によって救われたことになります。
この他にも記録されていない渡航証明書があったそうなので、軽く1万人は超えているでしょう。
平均値なのか、あるいは最低値なのか。「6,000人」といわれていることが多いようですが。
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