こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【美保関事件】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
艦長が自決
この多重衝突事故の結果、「蕨」乗組の92名、「葦」乗組の27名の、計119名が殉職しました。
事故を受けて、最初に衝突した「神通」艦長の水城圭次(みずきけいじ)海軍大佐は海軍の査問会にかけられます。
査問会で水城大佐は、
「このような事故の最終的な責任は、先頭艦の指揮官の負うべきものだ」
と証言し、判決前日の1927(昭和2)年12月26日、自宅で自決しました。
事故は、無燈火での複数艦での戦闘訓練という実戦さながらの厳しい訓練の過程で起きたもので、安全軽視の一面もあり、また、艦隊の練度や技量をはるかに超えた訓練内容でもあったことから、「海の八甲田山」とも言われています。
安全性軽視の訓練はその後も5年ごとに発生
しかし、この後も同様の訓練は継続されました。
結果、艦艇同士の衝突事故が昭和5年(1930年)10月25日、昭和9年(1934年)6月29日、昭和14年(1939年)2月2日と、ほぼ5年おきに発生してしまいます。
現在、日本海を見下ろす美保関灯台の中には、美保関事件の説明版とともに、ここに沈んだ駆逐艦「蕨」の模型が展示されています。
あわせて読みたい関連記事
潜水艇に閉じ込められた死の記録「佐久間勉と第六潜水艇沈没事故」が凄まじい
続きを見る
軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲! 不器用な海軍の職人魂ここにあり
続きを見る
戦艦武蔵の発見!海底に眠る旧海軍の軍艦たち「戦艦大和」は鹿児島沖に
続きを見る
横須賀海軍工廠は小栗や栗本など幕臣の提言から始まった~呉や舞鶴の工廠は?
続きを見る
海軍のアイドル・給糧艦の「伊良湖」と「間宮」兵士を癒やしたラムネとオニギリ
続きを見る
みはぎのまりお・記