元慶四年(880年)12月4日は、清和天皇が崩御された日です。
神話の時代から現代まで続いている天皇の中には「誰?」と思ってしまうような知名度の方もおられますよね。
その中で清和天皇の名前は、なかなか有名なほうではないでしょうか。
特に武士や戦国武将好きの方々であればご存知のとおり、源頼朝をはじめとしたいわゆる”源氏”は、清和天皇の子孫の血筋だからです。
となると「じゃあ皇族じゃないの? 源氏って一体何なの?」とハテナが大量生産されしまうかもしれませんが……。
そのへんも含めて清和天皇の一生を振り返ってみましょう。

清和天皇/wikipediaより引用
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わずか9歳で即位 その背景には祖父の藤原良房が
清和天皇は嘉祥3年(850年)3月25日、先代・文徳天皇の第四皇子として生まれました。
既に藤原氏フィーバーが始まった時代だったため、母が一族の姫だった清和天皇は兄皇子をすっ飛ばして皇太子になります。
立太子のときはわずか8ヶ月だったそうですから、藤原氏の横暴振りがわかるというものですね。
そして父君が亡くなると、わずか9歳で天皇の位に就きました。
もちろん母方のジーチャン・藤原良房ががっちり脇を固めています。
既に太政大臣の位を得ていたため、位として摂政にはならなかったようです。やってることは似たようなものですが。

藤原良房/wikipediaより引用
しかし、改めて良房を摂政にせざるを得ない事件が起きます。
【応天門の変】と呼ばれる、そのまんまの不敬な出来事があったのです。
これによって良房は政敵を犯人に仕立て上げて追い落とし、表向きは「ワルモノを退けた」ということになるので、清和天皇は彼を一層信頼する証として摂政の位をやらざるをえませんでした。
ちなみにこの頃、清和天皇は17歳。
摂政が必要かどうかといえば、まぁ「いたほうが心強い」という年齢ではありますけど、経緯が経緯なだけに釈然としないものもありますね。
27歳で突如、9歳だった陽成天皇へ譲位
さすがに20歳を超えたら親政をするか、摂政を取り消すか。
清和天皇はそうしませんでした。
というか、既に藤原氏から権力を奪うことができない状態に陥っていました。
まぁ、彼らの奥さんを迎えさせられるわ、子供を掠め取るような真似をされるわで散々だったのですが、代々続いてきた公家ですから、皆それなりにデキる人たちです。基本的には。
そのため清和天皇は争いを避け、良房が亡くなるまで摂政を解任したりはしなかったようです。
その代わりというかなんというか、清和天皇はウルトラC級の反撃?をします。
なんと27歳の若さで突然「私、もう天皇辞めるわ。後は息子とうまくやってくれ」(超訳)と譲位してしまったのです。
意図してか偶然か、次の陽成天皇は、清和天皇が位についたのと同じ9歳でした。
さらに清和”上皇”は譲位から三年後に頭を丸め、仏門に入ってしまわれます。
しかもただの出家ではなく、断食など荒すぎる苦行をした上でのことでした。
臣籍降下で多くの源氏や平氏が誕生していた
清和上皇がなぜそこまで苦しい修行を選んだのか。
真意は定かではありませんが、この世にいるうちは安寧を望んだようで、京の中に御所を作らせたのではなく、都の中心からは少し離れた水尾という場所を終の棲家としました。
現在の地名では京都市右京区水尾です。
1200年前からある地名と考えると、さすが京都ぱねえ。
亡くなったのはもう少し離れたところにある清涼寺というところなのですけども、これまた現在の地名では同じ右京区なので概ねご希望が叶ったと見ていいでしょう。
陵(みささぎ・皇族のお墓)は水尾に作られています。
そんなわけで武士とは全く縁のなさそうな生涯を送られた方なのですが、ここで冒頭のお話に戻りましょう。
31歳というお若さで亡くなったものの、清和天皇には数多くの皇子・皇女がいました。
そしてそのうち孫の源経基(父は貞純親王)や源清蔭(きよかげ・父は陽成天皇)が「源」の姓をもらって臣下に降っています。
このようにして皇族の身分を離れることを”臣籍降下”といいますが、一般的にイメージされる”源氏”や”平氏”のほとんどは臣籍降下した元・皇族の子孫達です。
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子沢山な皇族ほど子供や孫が臣籍降下する確率も高く、そのため枝分かれした人の親の名を取って「◯◯源氏」とか「✕✕源氏」というように系統を区別しています。
そのうち「清和源氏」が最も有名で、誰もが知っている武家の源姓は、さらにそこから「河内源氏」となった系統です。頼朝もここですね。
【清和天皇】
│
第六皇子・貞純親王
│
経基王(源経基)初代
│
源満仲(安和の変)
│
源頼信(道長四天王)→ここから河内源氏
│
源頼義(前九年の役)
│
源義家(後三年の役)
ここから先、さらに細かく枝分かれするときには、全く別の名字を名乗ることもよくありました。
有名な例でいうと、足利氏(尊氏の家)や新田氏(義貞の家)、武田氏(信玄の家)は河内源氏の一流になります。
具体的には、以下の図の通り、源頼義や源義家から分かれました。
甲斐源氏の嫡流・武田氏の初代は武田信義で、こちらは『鎌倉殿の13人』に登場していましたね。
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武家ではない公家の源氏・平氏も多々おります
そんなわけで「源氏の血筋って言ってるけど名字違うじゃん」というようなことが起きるわけです。
ちなみに元が皇族なので、後々武士になった人たちだけでなく、公家の源氏や平氏もたくさんあります。
清和天皇が亡くなったのも、源融(みなもとのとおる)という貴族の別荘でした。
そこが清涼寺の原型です。
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百人一首にも歌が取られていますし、光源氏のモデルの一人ともされているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。
光源氏も臣籍降下の一例ですね。
臣籍になる理由は「皇族のままだといろいろ制限があるので生活が苦しいが、臣下になればできることが増えるため、生活を安定させることができる可能性が高い」という切実な状況から、というのが多かったようです。
臣籍降下は、ある意味リストラ・早期退職みたいなもので親近感が湧きますので、こうしたシステムが日本で皇室を存続できた一因なのかもしれません。
清和天皇が亡くなってしばらくの間は藤原無双の時代が続きます。
大河ドラマ『光る君へ』などは、その頂点。
娘を天皇の后にして孫が生まれたらガッチリ手綱を握る――そんな外戚政治は道長のずっと前から行われていたんですね。
しかし、その後、源氏によって武家政権が作られ、概ね700年ほど武士中心の世の中になっていくことを考えると、清和天皇が荒行で祈ったことは決して無駄にはならなかったのかもしれません。
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【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部 『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
山本博文『ビジュアル百科 写真と図解でわかる! 天皇〈125代〉の歴史』(→amazon)
清和天皇/wikipedia








