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【承和の変】
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危機感を募らせる淳和派の恒貞親王シンパ
この派閥争いは、嵯峨派の第54代・仁明天皇が即位してから、日に日に深まっていきます。
こちらも図式化しておきましょう。
兄弟の順番を守るとすれば、【嵯峨派】の第54代仁明天皇の次には【淳和派】の恒貞親王が即位し、その後再び【嵯峨派】である仁明天皇の皇子が皇太子となって、平穏が保たれるはずでした。
嵯峨天皇(嵯峨派)
↓
淳和天皇(淳和派)
↓
仁明天皇(嵯峨派)
↓
恒貞親王(淳和派)
↓
仁明天皇の皇子(嵯峨派)
という流れですね。
しかし、ここで不幸が重なります。
淳和上皇に続き嵯峨上皇も崩御
承和七年(840年)に淳和上皇が崩御し、さらに嵯峨上皇が重病となって、2年後に同じく崩御してしまったのです。
ぶっちゃけて言うと、「朝廷のツートップが一気にいなくなってしまったため、誰も家臣たちの頭を押さえることができなくなってしまった」という感じで。一気に暗雲が立ち込めます。
危機感を募らせたのは恒貞親王を推す人々でした。
上記の通り、本来なら仁明天皇の次代は恒貞親王が天皇になる――という流れですが、すでにそんなパワーバランスは崩れかけております。
そこで動いたのが伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(三筆の一人)でした。
彼らは恒貞親王の側近たちで、
「いっそのこと東国で兵を挙げて戦い、自分たちの国を作り直そう!」
としたのです。
これが【承和の変】、物理的行動のスタートです。
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