承和の変

嵯峨天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

承和の変は前提を押さえりゃバッチリ!嵯峨派と淳和派の流れが大事なの

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危機感を募らせる淳和派の恒貞親王シンパ

この派閥争いは、嵯峨派の第54代・仁明天皇が即位してから、日に日に深まっていきます。

こちらも図式化しておきましょう。

【嵯峨派】

嵯峨上皇

仁明天皇(嵯峨天皇の子供)

藤原良房(冬嗣の息子で藤原北家)

橘氏公(仁明天皇の外叔父)たち

【淳和派】

淳和上皇

恒貞親王(淳和上皇の第二皇子・この時点で皇太子)

藤原愛発(薬子の変で旨味を吸った藤原冬嗣の弟)

藤原吉野(藤原式家)

文室秋津など

兄弟の順番を守るとすれば、【嵯峨派】の第54代仁明天皇の次には【淳和派】の恒貞親王が即位し、その後再び【嵯峨派】である仁明天皇の皇子が皇太子となって、平穏が保たれるはずでした。

嵯峨天皇(嵯峨派)

淳和天皇(淳和派)

仁明天皇(嵯峨派)

恒貞親王(淳和派)

仁明天皇の皇子(嵯峨派)

という流れですね。

しかし、ここで不幸が重なります。

 

淳和上皇に続き嵯峨上皇も崩御

承和七年(840年)に淳和上皇が崩御し、さらに嵯峨上皇が重病となって、2年後に同じく崩御してしまったのです。

ぶっちゃけて言うと、「朝廷のツートップが一気にいなくなってしまったため、誰も家臣たちの頭を押さえることができなくなってしまった」という感じで。一気に暗雲が立ち込めます。

危機感を募らせたのは恒貞親王を推す人々でした。

上記の通り、本来なら仁明天皇の次代は恒貞親王が天皇になる――という流れですが、すでにそんなパワーバランスは崩れかけております。

そこで動いたのが伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(三筆の一人)でした。

彼らは恒貞親王の側近たちで、

「いっそのこと東国で兵を挙げて戦い、自分たちの国を作り直そう!」

としたのです。

これが【承和の変】、物理的行動のスタートです。

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