女官(尚侍・典侍・掌侍・女孺・女蔵人)

『装束着用之図』/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

平安時代の女官ってどんな職種がある?尚侍・典侍・掌侍・女孺・女蔵人

皇后や中宮、あるいは御息所の差ってご存知ですか?

紫式部清少納言に興味をお持ちの方は「YES!」と即答かもしれませんが、一般的には、いやぁ、なんとなく雰囲気しかわからんなぁ……という印象かもしれません。

皇后や中宮は、「天皇の后妃(奥様)」の呼び名で、ポジションも微妙に異なっておりました。

以下の記事に詳細がございますのでよろしければご確認いただきたいのですが、

皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院
皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の違い~天皇「后妃の法則」

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本日は、同じようにややこしい「女官」について整理しておきたいと思います。

女官とは、文字通り「女性の官僚(役人)」という意味。

コチラもちょいちょい耳にする機会はありながら、でも実際にはキッチリとは把握できていない項目ではないでしょうか。

というわけで本稿では「平安時代の女官」についてまとめてみました。

 

江戸時代の大奥みたいなもので

飛鳥~平安時代に整備・発展を遂げた律令下では、女性を管理する役所がありました。

内侍司(ないしし・ないしのつかさ)と言います。

「女性の役人=女官」が所属する機関で、イメージは江戸時代大奥に少し似ています。

大奥はいわゆる「女の戦い」の印象が強いですが、実際は「御年寄」などの役職が設けられ、序列と役割がありました。

内侍司もそんな感じです。

こちらは奈良時代からあり、平安時代に「儀礼」の整備などで仕事が激増、臨時の役職を増やしたりするなどして対応してきました。

 

尚侍 is NO.1 実務はNo.2の典侍

当初は女性の役人という性格が強かった内侍司。

基本的には、天皇の事務仕事を補助したり、祭事に携わったりするのが役割ですが、やがて「将来の皇后候補養成所」という性質も出てきます。

特に長官である尚侍(ないしのかみ)はその傾向が強い役職でした。

そのため、彼女らに代わって実務を請け負っていたのが、内侍司のNo.2である典侍(ないしのすけ/てんじ)です。

彼女らが実質的長官として実際にオシゴトを取り仕切っておりました。

もちろん両名だけでは終わりません。

典侍の下には掌侍(ないしのじょう)、そして掌侍は女蔵人(にょくろうど)・女孺(にょじゅ)を束ねています。

では「よく聞く“女房”って何なの?(´・ω・`)」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。

【参考:内侍司(ないしし)の序列】

長官:尚侍(ないしのかみ)定員2名

No.2:典侍(ないしのすけ/てんじ)定員4名

No.3:掌侍(ないしのじょう)定員4名※追加で6名

女孺(にょじゅ)定員100名
女蔵人(にょくろうど)
命婦(みょうぶ)
東豎子(あずまわらわ)

 

身分の高い人に仕えていた女性使用人を女房と呼ぶ

女房とは、公的・私的を問わず、身分の高い人に仕えていた「女性使用人全般」のことを指します。

宮中においての女房が公的な身分を持っていたのか、あくまで后妃たちの私的な使用人だったのか……これについては、まだ専門家の間でも見解が分かれているようで、ややこしや~。

というのも、女房は、

「元々宮中に仕えていて、後から入ってきた后妃に配置換えされた人」なのか

「后妃が入内する際に実家からついてきた(あるいは後日実家からやってきた)人」なのか

明確に区別されていたかどうかが不明なのです。

例えば、紫式部の娘・大弐三位(だいにのさんみ)は母と同じく藤原摂関家の繋がりで藤原彰子に仕えました。

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しかし、後に後冷泉天皇の乳母になったため、その即位後に三位を授かってから「大弐三位」と呼ばれるようになっています。

私的な使用人が公的な立場をもらったパターンですね。

平安時代における皇室の取り決めは、とても厳格なイメージでしたが、結構テキトーというか、おおらかな感じがしますね。

内侍司の女性が「皇后候補」として注目されるようになると、そのトップである尚侍は、ほぼ藤原氏の女性しかなれませんでした。まぁ、それが権力というやつですね。

ただし、鎌倉時代になると、任命すらされなくなっていきます。

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