上皇や法皇というのは、後世の我々にとってなかなか厄介な存在です。
一般的に「上皇」という言葉が強く意識されるのは「白河天皇(在位1072-1086年)が上皇となって院政を始めた」頃からでしょう。
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しかし、厳密に見ると上皇はもっと昔からいて、たぶん皆さんの想像よりもずっと多くおられます。
第44代の持統天皇(在位690-697年→持統上皇)から、ラストとなった江戸時代の光格天皇(在位1779-1817年→光格上皇)まで、ざっと数えて60人以上。
まぁ、当たり前なんですけどね。
天皇を譲位した場合に上皇という称号になりますので、在位中に崩御されなければ自然と上皇になります。
こうした背景を踏まえて、今回見てみたいのが1156年7月20日(保元元年7月2日)に崩御された鳥羽上皇の「院政」です。
西暦で見ると在位期間が1107年~1123年で、同年以降、上皇となりました。
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「治天の君」は上皇だった平安末期
実際に政治を行っていた天皇や上皇を「治天の君」と言います。
平安時代末期の院政は、まさにそういった上皇が政治を行う時代。
第72代白河天皇(白河上皇・白河法皇)から始まったこの系統は、次に第74代鳥羽上皇へと引き継がれました。
その前の第73代堀河天皇はお体が弱く、29才で在位中に崩御しており、一代飛んで院政が継承されたのです。
今回は、白河上皇の次の次である鳥羽上皇以降の院政を見て参りましょう。
治天の君・補足
・天皇が政治を行うと→親政
・上皇が政治を行うと→院政
※ちなみに上皇が出家すると法皇になります(宇多法皇以降)
彰子じゃないよ璋子だよ
まずは当時の天皇の流れを見ておきましょう。
※( )内は天皇としての在位期間
第72代 白河天皇
(1072-1086年)
↓
第73代 堀河天皇
(1086-1107年)
↓
第74代 鳥羽天皇 ←今回の主役
(1107-1123年)
↓
第75代 崇徳天皇
(1123-1141年)
↓
第76代 近衛天皇
(1141-1155年)
↓
第77代 後白河天皇
(1155-1158年)
↓
第78代 二条天皇
(1158-1165年)
二条天皇から下以降は、源平の戦いと絡む話になってきますので後日掲載、ここでは割愛いたします。
鳥羽天皇は康和五年(1103年)、堀河天皇の第一皇子として生まれ、その年のうちに皇太子となりました。
幼いうちに父帝が亡くなって即位したため、祖父・白河上皇が院政を続け、その後見を受けて育ちます。
后妃の選出にも白河上皇の意思が反映されており、鳥羽天皇が14歳のときに権大納言・藤原公実(ふじわら の きんざね)の娘・藤原璋子(しょうし・待賢門院)を女御とし、翌年には彼女を皇后にしました。
受験生の方は、璋子の名前がテストに出ることはあまりないかと思いますが、藤原道長の娘・藤原彰子と字面が似ているので、少々注意したほうがいいかもしれません。
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まぁ、時代が全く違うので「どの天皇の時代なのか?」ですぐにわかります。
・一条天皇や紫式部が絡むなら“彰”子
・院政や鳥羽天皇の名前が出てくるなら“璋”子
「ショウ」の字をキッチリ把握しておきましょう。
鳥羽天皇と璋子の夫婦仲は悪くなかったのですが、璋子は白河上皇のお気に入りでもありました。
これが後々、火種を生むことになります。
崇徳天皇は4才 近衛天皇は2才で即位
鳥羽天皇と璋子、二人の間には間もなく皇子が生まれました。
後の崇徳天皇です。
父である鳥羽天皇が健康であれば、特に皇位継承を急ぐ理由はありません。
しかし、白河上皇はひ孫となる崇徳天皇の即位を異様に急がせました。
崇徳天皇が4歳のとき、鳥羽天皇から譲位させてしまったのです。
これでは「皇位の安定」の他に何らかの恣意があった……と思われても仕方がありません。
ただ、孫である鳥羽上皇は、絶大な権力を持っていた白河法皇に逆らいきれません。
問題は、白河法皇が崩御してから表面化します。
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