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【坂上田村麻呂】
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助命嘆願する坂上田村麻呂に対し、さんざん辛酸を舐めさせられてきた貴族たちは、聞く耳を持ちませんでした。
「コイツらのためにいくら使って何人死んだと思ってんだよ!処刑するに決まってんだろ!」
そもそも征夷大将軍という役職名自体
「夷」=「東夷」=「東のほうにいる野蛮人」
を征討するという意味がありますから、「オメー自分の仕事の意味わかってんのか!」なんて気持ちもあったのかもしれません。
中央政府の管理が行き届かないところの人間を野蛮人=討伐対象としているあたり、この時代はまだまだ中国諸王朝からの影響が強かったことがうかがえます。
遣唐使真っ盛りの時期ですし。
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結局、坂上苅田麻呂の願い叶わず、延暦21年阿弖利為(あてるい)と盤具公母禮(いわぐのきみもれ)は延暦21年(802年)8月に処刑されてしまいました。
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田村麻呂による三回目の討伐は
こうした無慈悲な対応に、当然蝦夷の人々は激怒。
約束反故でリーダーが処刑されたもんだから再び関係が悪化すると、延暦23年(804年)、坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任ぜられました。
そこで軍を整えて出発し……ませんでした。
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が桓武天皇に奏上したのです。
「そろそろ乱暴なことするのやめません? 軍を動かすと税もいっぱい取り立てなくちゃいけませんし、民が大変です」
桓武天皇もこの案を受け入れ、田村麻呂による三回目の討伐は中止。
その翌年には、他ならぬ桓武天皇も崩御され、以降、坂上田村麻呂は戦場に赴くことなく京都で暮らしていくことになります。
ちなみに、藤原緒嗣は根っから平和主義者だったのか、それともコスパが悪いと考えたのか。
その後、東北の地方官へ任命された後も「いやいや穏便に行きましょう。皆話せばわかってくれますって」というように軍を動かすことなく東北を治めることに専念しています。
見方によっては、相当有能な方かもしれません。
さて、話は田村麻呂に戻ります。
京都の清水寺を創建したのはこのお方だった
三度目の遠征はキャンセルになったとはいえ、田村麻呂はまだ四十代。
当時の平均寿命的にはそろそろ引退でもおかしくはない年代ですが、何せこの時代に身長170cmを超えていたとか、胸の厚みが36cmあったとか言われている人ですから、まだまだ元気だったことでしょう。
頭もキレる人だったようで、参議、中納言、大納言と順調に出世していきました。
このころ京都の清水寺や富士山本宮浅間大社を創建したといわれています。
武人とはいえ猪武者ではない田村麻呂ですから、もしかしたらアテルイやモレの鎮魂の意味もあったかもしれませんね。
教科書で初めて出てくる日本の将軍は、文武両道のスゴイお人だったのでした。
その後は父親と同じく朝廷の政争に巻き込まれたりもしたものの、弘仁二年(811年)に病気で亡くなります。享年54。
嵯峨天皇は悲しみのあまり丸一日政務を取ることができず、彼を称える漢詩を作ってその死を惜しんだそうです。
……仕事はできないのに詩は詠めるってどういうことなのとか言っちゃいけません。麗しい主従愛でしょう。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
岡本公樹『東北─不屈の歴史をひもとく』(→amazon)
坂上田村麻呂/wikipedia