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関白
藤原道長の日記「御堂“関白”記」や、豊臣秀吉が就いたことで有名な役職ですね。
実は道長は関白の座には就いていないんですけど、その辺から「政治を牛耳っている人」のようなイメージがあるかもしれません。
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本来は「成人した天皇の補佐を務める」のが仕事です。
政治における天皇の女房役という感じでしょうか。
道長から秀吉までの間に当たる時代も、道長の子孫である五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)が務めておりましたが、そもそも政治の実権が武家に委ねられていたため、大きな働きはしていません。
実際のところ、なぜ秀吉が関白になりたがったのか? よくわからないぐらい戦国時代には有名無実化していた役職です。
「源氏の血を引いていないと征夷大将軍になれないので、無理やり近衛家の養子に入って関白に就き、関白を征夷大将軍より格上の武家による世襲職にしたかった」なんて説もありますが、どうだったんでしょうね。
むしろ、信長・秀吉が京都を復興して急に豊かになった五摂家が家のなかで「関白」でもめて社会問題になりそうだったので、秀吉が「めんどくさいな。じゃあ、オレが関白なるわ」くらいの感じだったようにもみえます。
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実際になってみると、この肩書が「使える」と気づいたくらいのものかもしれません。
しかし、五摂家にとっては数百年間独占していた役職なので、秀吉にゴリ押されたときはかなりの屈辱に感じたようです。
検非違使(けびいし)
日本史受験ではお馴染みの言葉ですね。
最近ではゲームにも登場していて、より一層身近な存在になっているかもしれません。
文字を分解してみますと、「非違」を「検(あらた)める」使いの者。
訳すと「法律に背くこと(=犯罪)を詳しく調べる仕事」であり、要は警察官のような仕事です。
主に活動範囲は京都の市中でした。
桓武天皇の治世で軍事力を排除する政策をすすめた結果、警察力が低下(=治安が悪化)したため設置されたものです。
犯罪に手を染めるような者を取り押さえるには武力が必要となるため、時代が進むにつれて「武士の登竜門」とみなされるようになっていきました。
歴史的には、源義経が後白河法皇から勝手にこの仕事をもらって源頼朝に怒られ、兄弟の溝がより深まった……という逸話でも有名ですね。
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これは検非違使だから、というのではなく、頼朝からすると
「これから武家は全員俺の部下として振る舞うべきなのに、俺を飛び越えて朝廷から官位をもらうなんて、敵対するつもりなんだな?^^」
というものなので、別の仕事でも同じような経緯になっていたでしょうね。
とはいえ、源平の対立が起きるよりも前、院政が定着した辺りからは、北面の武士が似たような仕事をしていました。
そのため、検非違使の権限や実務の量はさほどでもなかったでしょう。
後白河法皇も、義経をとりあえずなだめるために検非違使にしておき、実務はさせないつもりだったのでしょうか。
義経は京で人気が高かったので、頼朝との仲が修復できたとしても、北面の武士と揉めていた可能性が高そうですね。
それはそれでいずれ頼朝の不興を買いそうです。
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