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【橘奈良麻呂の乱】
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「自分の意見は退けて、仲麻呂ならいいのか!」
その後、聖武上皇が崩御した際の遺言により、天武天皇の孫・道祖王が皇太子となりました。
道祖王は黄文王とは違う系統の人です。
しかし、その道祖王が孝謙天皇の不興を買って廃太子となり、代わりに藤原仲麻呂の推薦で大炊王という別の皇族が皇太子になりました。
大炊王もまた天武天皇の孫です。
大炊王・道祖王、そして黄文王の父である長屋王はイトコ同士ということになりますね。
「自分の意見は退けられたのに、仲麻呂の言うことならいいのか!」
不満を抱いた奈良麻呂は、反藤原氏の人々を味方につけて仲麻呂排斥を本格的に画策し始めました。
しかし、これは黄文王の兄弟・山背王(後に藤原弟貞)によって、孝謙天皇に密告されてしまいます。親子揃って身辺ガバガバ過ぎな気が……。
孝謙天皇は母である光明皇太后と共に、家臣たち全体に「謀反を企んでいる者がいるそうだけれど、皆仲良く仕事をしておくれ」(意訳)と呼びかけました。
聖武天皇と光明皇后が仲睦まじい夫婦だったので、孝謙天皇も温厚な人だったのでしょう。
ある意味、他人に流されやすいというか、この後また別の件でその性格が問題になったりするのですが……まぁそれは別の話ですね。
関係者の多くが命を落とし、藤原氏の勢力が拡大
奈良麻呂たちの計画は、やっぱりどこからか仲麻呂にバレます。
仲麻呂は孝謙天皇に報告したのですが、孝謙天皇は奈良麻呂らの前で「そなたたちが謀反を企んでいると聞いたが、私は信じない」と言うだけにとどめました。
「だから馬鹿なことはしないでおくれ」と言いたかったのでしょう。バレている計画をあえて実行するなんて、メリットがなさすぎますしね。
しかし、その日のうちに奈良麻呂派の一人が計画を自白し、計画に加担した者全てが苛烈な処分を受けることになります。
もちろん、首謀者である奈良麻呂も捕まりました。
彼は「東大寺の造営などで民が苦しんでいるから、孝謙天皇を廃して新しい天皇を立てようとした」と自白したそうです。
こういうとき「自分が権力を手に入れたいからやりました」と言わないのがテンプレというかなんというか。
再三諭されていたにもかかわらず、なおも企んでいたことが加味されてか、取り調べはかなり厳しいものだったようです。
そして獄中で死去。享年37。
主だった関係者の多くが、過酷な拷問に耐えかねて絶命しました。
比較的軽い者でも土佐への配流や臣籍降下、免職などの処分を受けたといいます。中には自害した人もいたとか。
皇位皇族と関わる「臣籍降下」とは?姓がある=皇族ではないの原則
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この事件は結局、仲麻呂をはじめとした藤原氏の勢力を確立することになってしまいました。
しかし、仲麻呂もこの件から7年後に乱を起こし、失脚どころか一族まるごと滅びています。なぜ学ばない……。
「歴史を知らずに轍を踏む」というのは(残念ながら)ままある話ですが、仲麻呂の場合、当事者だったのにすっかり忘れてるあたりが実に評価しがたいですね。
「自分ならあんなヘマはしない」と思ってしまったのでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
橘奈良麻呂の乱/wikipedia