天智天皇

『古今偉傑全身肖像』の天智天皇/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

天智天皇による政敵粛清が圧倒的だ~諱の由来は紂王「天智玉」だったのか

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「俺、あの2人を倒そうと思ってるの!」

中大兄皇子のせいで父親が不遇の死を遂げた有間皇子。

貴族たちの囁きを真に受け「俺、あの2人を倒そうと思ってるの!」と話してしまいます。

フラグ成立です。

実はその貴族とは中大兄皇子の手先で「天皇に謀反をしようと企んだ」と密告され、哀れ有間皇子は縛り首となってしまいます。

呆気にとられるほど鮮やかな手際です。

その後、百済の維新が日本に救援を求めてきたため全国にかけて徴兵を実施。

阿倍比羅夫を将軍にして朝鮮半島へ送り込み、自らは筑前朝倉宮に移りますが、斉明天皇が崩御されても天皇を置かず、皇太子のまま迎えたのが663年白村江の戦いでした。

この大戦に日本は惨敗を喫します。

天智天皇も、ここにきて内政の立て直しを痛感したのでしょう。

斉明天皇/wikipediaより引用

公地公民制の強化に努めながら、都を大津(近江)に移すと、ようやく即位と相成りました。

元号では、斉明天皇の崩御翌年が天智天皇元年となっております。

ここで自分の弟(一説には庶兄)である「大海人皇子」が皇太弟に。

しかし、天智天皇が自分の息子「大友皇子」を皇位に付けたい意図を察した大海人皇子は皇太弟を降り、大友皇子が皇太子となります。

大海人皇子は兄の性格をよく分かっていたのでしょう。

病床で「次の天皇はお前に~」と言われた時も辞退し、しかも剃髪する念の入れようです。

ここでウッカリ「Yes!」なんて言ったら殺されるかもしれませんからね。

史実かどうかは怪しいところですが、大海人皇子の恋人だった額田王を天智天皇が奪ったなんて話もあり、兄が生きている間は刺激しないように耐えていたのでしょう。

天智天皇十年(672年)12月3日。

享年46で兄が亡くなると【壬申の乱】で大友皇子を倒し、天武天皇となりました。

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鴎外の『帝謚孝』では『天智玉』に由来

最後に諡(おくりな)について見ておきたいと思います。

「天智天皇」とは、死後に贈られた名前です。

「天」とか「智」という、なんだか良さげな意味の漢字が並んでおり、ともすれば「智恵があり立派な天皇」ってイメージしますよね?

森鴎外の『帝謚孝』では、この諡、殷の紂王(ちゅうおう)が持っていた『天智玉』に由来するとしております。

紂王といえば暴君の代名詞。

贅沢を好み、残虐な刑罰を行い、最期は英雄に殺されて殷は滅んでしまいます。

そして紂王を滅ぼしたのが『武』であり……天智天皇の次に即位した大海人皇子は……そう「天武天皇」ですよね。

そう考えると、義兄の古人大兄皇子や義父の蘇我石川麻呂、あるいは甥の有間皇子など、次々に粛清していった天智天皇は日本史随一のワルだった可能性もあると思いませんか?

儒教の影響が強い江戸時代でも、非難される存在でした。

悪人度  ★★★★★?
影響力(権力)★★★★★
粛正度 ★★★★★


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文&イラスト・馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
国史大辞典
天智天皇 天武天皇 皇極天皇
米田雄介『令和新修 歴代天皇・年号事典』(→amazon

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