いくら自分が正しくても目上に意見するって難しいですよね。
本日は遠い昔、エラくなりつつある人に堂々と逆らった&しかもその後で気に入られたという、度胸ある人に注目。
文治五年(1189年)9月22日は、葛西清重という武士が奥州総奉行に任命された日です。
任じたのは源頼朝です。
まずは葛西の出自から確認してみましょう。
葛西清重、かなり熱心に誘われ、平氏討伐に立ち上がる
葛西清重は、父が秩父氏の一族。
もとは武蔵国(現・東京都&埼玉県の一部)に領地を持っていました
清重は三男だったためか。
その一部である下総国葛西御厨(現・東京都葛飾区)を相続、現在も「葛西」と呼ばれている辺りですね。
彼らと頼朝との付き合いは、平氏討伐のための挙兵をした頃からです。
【石橋山の戦い】で敗走した頼朝が、あらためて味方を募るため関東周辺の武士に書状を送ったことがありました。その際、特に見込まれていたのが葛西家であり、かなり熱心に参戦を求められております。
そして葛西氏も、諸々の事情ですぐには参陣できなかったものの一ヶ月ほどして合流しました。
ここでちょっとしたトラブルがおきます。
江戸重長
葛西家の親戚である江戸重長という人物が、【石橋山の戦い】では頼朝の敵方についていたため、なかなか源氏軍に加わらなかったのです。
頼朝が丁寧な手紙を出したにもかかわらず腰を上げない重長に次第に怒りは高まり、ついに清重らに討つよう命じました。
その後、情勢が変わり、結局、重長も源氏につきます。
が、頼朝の怒りは収まらず、江戸家の領地を取り上げて清重に与えようとします。
そこで清重が取った行動がカッコエエんですわ。
「一族を養うために戦をして領地を得るのに、親戚から分捕るのでは筋が通りません。どうしてもとおっしゃるのなら、他の方にどうぞ」(意訳)
とまぁ、真っ向から拒否したんですね。
頼朝は皇族である以仁王の命令によって兵を動かしていますので、それに逆らうとはなかなかの度胸ですから、頼朝はこれにも怒り、重長だけでなく清重の領地も取り上げようとしました。
が清重は、それでも江戸家の領地を受け取るとは言いません。
頼朝もついに根負けし、清重も重長も許した……とされています。
「奥州総奉行」として東北の御家人統率を任される
短気なのか寛容なのか――頼朝はよくわからんところがありますよね。
これより後の話ですが、北条政子が静御前をかばったときも、その場で説得されてすぐ許していますし。
強引な相手に弱かったのか……と思いきや、義経とはアレなところがやっぱりよくわかりません。“面と向かって言われる”と弱かったんですかね。
閑話休題。
時は流れ【富士川の戦い】や佐竹氏討伐の後、頼朝が清重の館に寄ったことがありました。
清重はこれを光栄と思い、丁重にもてなした後、妻を差し出したといいます。
頼朝はこの褒美として新たに武蔵国丸子荘(現・神奈川県川崎市)を与え、さらに自分の寝所の警備をする武士の一人に清重を選びました。
清重の奥さんはどんだけいい女だったんですかね。
政子にバレたらヤバそう(小並感)。
ともかく、これで驕り高ぶらないのが、清重の出世の秘訣だったのかもしれません。
その後は頼朝の地味なほうの弟・源範頼に従って平氏討伐に参加、壇ノ浦の戦いの前に北条義時らと共に功績を賞されました。
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平氏滅亡後も真面目に働き、奥州合戦(奥州藤原氏討伐)では奮戦して胆沢郡・磐井郡(現・岩手県)と牡鹿郡(現・宮城県)を所領としてもらっています。
さらに「奥州総奉行」として東北の御家人統率を任されるなど、頼朝の信頼ぶりがうかがえますね。
記録があんまり残ってない 家系図すらも……
清重は他にも多くの権限を与えられており、奥州藤原氏の立ち位置をそっくり任されたような形になりました。
奥州藤原氏の遺臣が反乱を起こしたときも見事鎮圧し、これを機に関東へ戻っています。
そんなわけで、清重自身は奥州にあまり滞在しなかったのですが、彼の子孫と思われる葛西氏が後々ここに定着。
頼朝が亡くなった後はかつての戦友でもある北条家につき、宿老としての位置を固めました。
最後にもらった官職が壱岐守だったため、引退・出家の後は「壱岐入道定蓮」と呼ばれています。
これだけ頼朝や北条家と近い人なら、何かしら頼朝の死に関することを知っていそうですが、書き残したりはしなかったんですかね。
もっとも、葛西家自身の系図が複数あるくらいなので、記録することに大きな意義を感じない一族だったのかもしれません。ただ単に散逸した可能性もありますね。
まぁ、いずれにせよ清重が竹を割ったような性格のメンタルイケメンだった、ということは間違いなさそうです。
長月 七紀・記
【参考】
葛西清重/Wikipedia
奥州総奉行/Wikipedia