後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

後鳥羽上皇って実はマッチョな武闘派!菊の御紋で承久の乱を引き起こす

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
後鳥羽上皇
をクリックお願いします。

 

譲位後には和歌に熱中 史上最大の歌合も催した

心身ともに成長したこともあってか、後鳥羽上皇は土御門通親や近辺の公家を整理し、鎌倉幕府に対しても強気に出るようになりました。

一方で古来からの儀式や作法を再興・整備したりもしていました。

また、譲位した後くらいの時期から、後鳥羽上皇は和歌に熱中しはじめます。

治天の君=実際に政治を取り仕切っている皇族になって忙しいはずなのですが、積極的に歌会や歌合わせ(和歌の競技会)を開くようになったのです。

藤原俊成・定家親子を中心とした”御子左家”の歌風を特に気に入り、彼らとその縁者に参加を求めたりしていました。

俊成を和歌の師としてからは、後鳥羽上皇自身の歌のグレードも格段に上がっていきます。自分が成長すると同時に若い歌人にも詠進を求め、歌壇全体のレベルが上がりました。

そして建仁元年(1201年)7月には、1500番という超大規模な歌合わせを催しています。

30人の歌人に命じて100首ずつ歌を出させ、披露や勝敗は決めないというものでしたが、それでも和歌史上最大の歌合わせです。

さらに、同年11月に定家らに命じて、この「千五百番歌合」などをベースに「新古今和歌集」の編纂を命じました。

後鳥羽上皇自身も、積極的に歌選びや並び順に意見を述べたということが、定家の日記「明月記」などからわかっています。

「自分が好きなものを大いに盛り上げたい」という姿勢とその規模がさすが天皇(上皇)ですね。

そういえば祖父の後白河天皇も「やりすぎでは?」というレベルで今様(当時の流行歌)を愛好していました。血筋なんでしょうか。

後鳥羽上皇の父である高倉天皇も、長生きしていればそういう面が見えていたのかもしれません。

 

人もをし 人も恨めし あぢきなく

和歌への熱狂ぶりはかなりのもので、お忍びで町中の賭け連歌の会に行って、勝ったこともあったとか。お茶目すぎです。

それだけに御製(天皇の詠んだ歌)もかなりの数に登り、今回はごく一部をいつもの意訳とともにご紹介しましょう。

吹く風も をさまれる世の うれしきは 花見る時ぞ まづおぼえける

【意訳】風や戦の収まった世を最も嬉しく感じるのは、桜を心ゆくまで見られるときだ

これは承久の乱の前、建暦二年(1212年)の春に、内裏の「左近の桜」を見て詠んだものだといわれています。

最近では古典の先生が「和歌は昔の人のツイッターみたいなもの」とおっしゃることがあるそうですが、この歌のように身近な文物への感動を表したものは、まさにそんな感じですね。

人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は

【意訳】世の中のために何かを考えていると、人間のことを愛おしいとも、恨めしいとも思う

百人一首99番に採られていて、おそらく後鳥羽上皇の御製で一番有名な歌です。

これも承久の乱の数年前に詠んだといわれています。

この歌と実朝のスピード出世などを考えわせると、後鳥羽上皇も幕府とどう付き合っていくべきか、かなり悩んでいたのではないか……と思えてきますね。

時代が前後しますが、後に流刑になった後の歌も少々。

夕立の はれゆく峰の 雲間より 入日すずしき 露の玉笹

【意訳】夕立が上がった山にかかる雲の間から陽が差して、笹に残っている露を照らしているのがなんとも涼しげだ

われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け

【意訳】我こそは、この島の新しい守り人であるぞ。隠岐の波風よ、心して迎えるがいい

ベースはシンプルに、天皇らしい優美さと、個人的な剛毅さ、そして内心のコンプレックスや気負いなどがなんとなくうかがえる歌が多い気がしますね。

 

実朝とは定家を通じて気が合っていた?

また、時が流れて源実朝が三代将軍になると、幕府と朝廷の関係が一時的に改善に向かいます。

幕府としてもまだ若いとはいえ、子供がなかなか生まれない実朝の後継者に後鳥羽上皇の皇子を迎え、宮将軍としたい考えがあり、朝廷に打診していました。

後鳥羽上皇としては、悪くない話ですよね。

もしかすると、実朝の歌の師匠である藤原定家を通じて、実朝に好感を抱いていたのかもしれません。

後鳥羽上皇も和歌については定家から大きく影響を受けたといわれているので、定家は実朝と両方のお師匠様ということもできます。

不思議なことに、定家の歌は技巧的・優美な歌が多いのですが、後鳥羽上皇や実朝は技巧的というより素直な表現の歌が多く、気が合うのではないかと思われるところがあります(※個人の感想です)

後鳥羽上皇の歌を実朝が見たことがあったかどうかは分かりません。

ただ、実朝が定家に手紙で和歌の添削を頼んだことがあるので、可能性としては考えられますね。

また、後鳥羽上皇は実朝存命中は幕府との融和を考えており、そのために実朝の官位を爆上げした、という見方が近年強くなっているとか。

実朝の歌や定家から聞いた印象から「コイツとならまともに話ができるかも」と思い、期待していた……というのも、ありえない話ではなさそうです。

その場合、肝煎りとして実朝が上洛し、後鳥羽上皇にあいさつの一つもすれば丸く収まったかもしれませんね。

北条氏が黙らない限り、それも実現しなかったでしょうけれども。

ただし、この考えも、実朝が暗殺されたため一気に収束してしまいました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-