後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年

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源実朝とは定家を通じて

時が流れて源実朝が三代将軍になると、幕府と朝廷の関係が一時的に改善に向かいます。

二代将軍・源頼家から実朝への継承には【比企能員の変】など物騒な経緯があり、当時まだ幼名「千幡」だった実朝を北条氏が慌ただしく元服させて跡を継がせました。

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この「実朝」の名は後鳥羽上皇が与えたものです。

おそらくこの時点で、後鳥羽上皇はこう考えたのでしょう。

「代替わりを期に、鎌倉政権には”自分たちは朝廷の傘下にある”ことを自覚させるべし。それにはまず、幼い新将軍に庇護を与えて、ガッチリ取り込む」

事実として、実朝が将軍を務めていた間は、朝廷と鎌倉幕府の関係はかなり良い方に向かっていました。

その理由は主に3つあります。

ひとつは、実朝本人が上方を敬う姿勢だったことです。

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兄の頼家が母や御家人たちと対立し、自分ひとりで政治を担おうとした気概を見せたのに対し、実朝は頼朝の事績を学び、宮廷を重んじるスタンスを表しました。

実朝が数え12歳という幼さで将軍職を継いだためかもしれません。

結婚にもそれが表れており、母・政子が

「妻は御家人の娘から迎えるように」

と言い出した時、実朝は

「どうしても公家の姫をいただきたい」

と粘り、これに政子たちが折れて、御家人が京都で嫁探しをすることになりました。

これを受けて、後鳥羽上皇は自分の母の実家・坊門家から姫を実朝に許しています。

この女性についてはあまり記録が残されていないのですが、政子と一緒に実朝の健康祈願へ出かけたこともあり、北条氏とも比較的良い付き合いができていたと思われます。

おそらくは、実朝夫人や周辺の人から坊門家に幕府方の印象や実朝の人柄に関する話が伝わり、後鳥羽上皇も聞いたことでしょう。

 

「宮廷を敬い、温厚な性格で、同じ趣味がある」

2つめは、実朝が乱暴な性格ではなかったこと。

実朝は筋骨たくましいタイプではなく、線の細いタイプだったと考えられます。体調を崩すこともままあり、武芸にも身が入らなかったようで。

御家人からは「柔弱」と取られることもありましたが、政治についてはっきり自分の意見を持っており、内面は芯が通っていたと思われます。

そしてラスト3つめは、実朝と後鳥羽上皇に「和歌を好む」という共通点があったことです。

実朝は手紙で藤原定家に歌の添削を頼んでいました。

前述の通り、後鳥羽上皇も定家から影響を受けて和歌を詠んでいましたので、精神的には兄弟弟子のようなイメージを抱いていたかもしれません。

不思議なことに、定家の歌は技巧的・優美な歌が多いのですが、後鳥羽上皇や実朝は技巧的というより素直な表現の歌が多く、気が合うのでは?といった感があります(※個人の感想です)。

簡単にまとめると、後鳥羽上皇からみて

「宮廷を敬い、温厚な性格で、同じ趣味がある」

という人物だったのですね。

それが遠く離れた坂東の責任者になったわけですから、なんとなく「うまくやっていけるかも」と思った可能性はあるでしょう。

そんなわけで、後鳥羽上皇としても、

実朝存命中は幕府との融和を考えており、そのために実朝の官位を爆上げした

という見方が近年強くなっているようです。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも、それを匂わせるシーンがありましたよね。

念押しに実朝が上洛して後鳥羽上皇にあいさつし、実朝の子供以降にも「将軍は宮廷へご挨拶する」というような習慣を作れれば、朝幕関係は末永く続いたかもしれません。

史実では、実朝が息子に恵まれる前に暗殺されてしまったため、この流れは変更せざるを得なくなってしまうのですが……。

むろん即座に承久の乱へとなだれ込んだわけではありません。

実朝の暗殺は建保七年(1219年)、承久の乱は承久三年(1221年)です。

その2年ほどの間に何があったのか? 後鳥羽上皇の視点でみていきましょう。

 

トラブル続きで東国武士と決別

実朝に子供がいなかったのは前述した通りで、それ以外にも源氏の血脈は絶えていました。

頼朝の存命中に弟たちはほぼ粛清され、実朝の兄・頼家とその息子も同様の憂き目に遭っています。

どうにかこうにか将軍になれる血筋の人を上に据えないと、鎌倉幕府が瓦解してしまう。

そこで幕府の中枢は、朝廷に願い出ました。

「後鳥羽上皇の皇子のどなたかに、将軍としてこちらへ下ってきていただけませんか」

上皇はこれを拒否。

代わりに頼朝の遠縁にあたる九条頼経(兼実の曾孫)を遣わします。

頼経は当時元服していないどころか、まだ1歳。元服したのは承久の乱の後、嘉禄元年(1225年)のことでした。

しかしなぜ後鳥羽上皇は親王の東下を拒んだのか。

というと「上方と東国に両方とも皇族がいたら、国が割れる元凶になる」リスクを危惧したからだといわれています。

私見ながら「二代続けて自分たちの身内である将軍に不審な最期を遂げさせたような幕府に、大事な皇族を預けてたまるか」といった懸念もあったのでは?

それで身代わりにされた幼い藤原頼経も哀れですが……。

少し先の話をしますと、頼経の後は彼の息子が将軍となり、さらにその後は皇族が鎌倉幕府の将軍になっています。

しかし「宮将軍」と呼ばれた六代目以降の将軍はほとんど動向がわかっておらず、最後の将軍となった守邦親王については、倒幕の際どこにいたのかすら不明です。

「倒幕後間もなく出家した”らしい”」「その後三ヶ月ほどで亡くなった”らしい”」とだけ伝わっています。

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この後に【中先代の乱】をはじめとした鎌倉周辺の幕府復興運動の際も、守邦親王が担ぎ出されたとか北条方が接触したとかいう話もないので、完全に忘れ去られています。

つまりそれほどないがしろにされていたわけで……後鳥羽上皇が親王を送りたがらなかったのは正解だったということになりますね。

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