『病草紙』/国立国会図書館蔵

飛鳥・奈良・平安

平安京を襲った“疫病”とは具体的にどんな病気で貴族も感染したのか?

2025/05/04

貴族たちの優雅な世界観が描かれるのかと思いきや、殺伐とした現実や災厄も描かれることで話題となった大河ドラマ『光る君へ』。

その中でもとりわけインパクトあったのが“疫病”でしょう。

ひとたび都で流行ってしまえば、川や悲田院に死体が溢れ、主人公まひろもあわや感染か――というところで、藤原道長に看病されて回復したシーンは非常に示唆的でもありました。

というのも道長の兄である藤原道隆が

「疫病は下々の者たちだけで、我々貴族には関係ない!」

というスタンスで終始一貫強気だったからです。

しかし現実には、貴族ですらも感染したという報告があり、他ならぬ道隆も「やたらと水を飲みたがる病気」に罹って、結局、権力欲に固執しながら息絶えてしまいました。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

そこで気になるのがこれでしょう。

・疫病とは一体どんな種類の病気なのか?

・貴族は他にどんな病気にかかっていたのか?

日記などの記録をもとに、当時の疫病・病気を振り返ってみましょう。

 


疫病とは具体的にどんな病気なのか?

疫病とは、集団感染する伝染病のことを指します。

いわばパンデミックであり、現代でもコロナウイルスが世界中を騒がせたことは記憶に新しいですが、平安時代で怖い病気はなんだったのか?

主な伝染病をリスト化してみましょう。

・天然痘

・麻疹(はしか)

・インフルエンザ

顕微鏡も抗生物質もない時代。

一概にどれが最も怖い病気だったか?とはランキング付けできませんが、とりわけ天然痘は恐怖の対象でした。

ひとたび発症すれば高熱が数日続くだけでなく、体中に痛みが走り、さらには全身にボツボツ(水疱・膿疱)ができてしまうのです。

病後、回復したとしても顔に痘痕(あばた)が残れば、特に女性にとっては非常に辛いこと。

おまけに感染力や致死率が強いため、例えば天平9年(737年)に内裏で大流行したときは、政府が機能不全に陥った程とされます。

当たり前ですが、貴族も庶民も関係なく、伝染病に感染した――つまり藤原道隆が劇中で話していたことは、単なる希望的観測に過ぎなかったんですね。

しかも、こうした疫病については頻繁に起きており、『光る君へ』の舞台でとりわけ大きな流行となったのが長徳元年(995年)に広まった疱瘡(天然痘)でした。

ドラマの中で藤原道綱と藤原実資が

「ちょー毒!」
「不吉だ」

といった会話をしていましたが、おそらく当時の大流行をベースに脚本が作られたのでしょう。

藤原実資/wikipediaより引用

劇中でも描かれていたように、このときの平安京には死体が溢れ、以下のように壊滅的な状況が描かれています。

・人々は鼻を覆って通りを歩く

・カラスや野良犬が死体を食い飽きる

・骸骨が転がっている

・堀水に溜まった死体を下級役人がかき流す

さすがにドラマではそこまで描けませんよね……。

しかも、今後こうした疫病のことを細かく取り上げていくと、毎年のように流行っていることが藤原実資『小右記』や藤原行成『権記』あるいはその他の記録にも残されています。

というわけで天然痘(疱瘡)から、ここの事例を詳しく見てまいりましょう。

 


疱瘡=痘瘡=天然痘(もがさ)

疱瘡(痘瘡・天然痘・もがさ)は平安時代だけでなく、日本史でも世界史でも、たびたび登場する病気として有名ですね。

記録上で初めて登場するのは奈良時代(古墳時代という説もあるほど)。

かつては「お役」、つまり通過儀礼と見なされるほどよく罹る病気であり、「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」という言葉も生まれるほどでした。

平安時代では、長徳元年(995年)に大流行した病が天然痘であると考えられています。

この年は宮中に勤めていた貴族たちはもちろん、実は藤原道綱母のような宮仕えをしていない女性まで病死していました。

また、前述の通り、同年に藤原道隆が糖尿病で亡くなり、その他の貴族たちも天然痘で多数亡くなったことにより、藤原道長が台頭していくことになります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

歴史を動かした病といえるでしょう。

まぁ、その道長も結局は自身が糖尿病で亡くなる――という不吉な“業”のようなものも感じさせるのですが、糖尿病については以下の記事に詳しくありますので、よろしければご覧ください。

糖尿病の藤原道長
糖尿病の疑い濃厚だった道長 貴族の頂点に立ったとき「望月」は「朧月」だった?

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天然痘は発症の仕方によって分類されており、

・最も発症数の多い真痘

・一度かかった人が発症した場合に軽く発症する仮痘

・アレルギーによって一部の人が重症化した場合の出血性痘瘡

などいろいろなケースがあります。

また、天然痘は「失明の原因」となる病気の一つでもありました。

戦国大名の伊達政宗が有名であり、天然痘で失明してしまう場合、両目とも不自由にされてしまうケースが多かったとされています。

政宗は片目のみ失明した珍しいケースといえそうです。

古くから日本では全盲者・視覚障害者の職業として、盲僧琵琶や瞽女(ごぜ)などが存在しているのは、天然痘やその他眼病によって失明した者が多かったことからきているのかもしれません。

次に瘧(おこり)を見てまいりましょう。

 

瘧(おこり)

古い時代の病気として有名な瘧(おこり)は、現代でマラリアだと考えられています。

『源氏物語』ですと「若紫」の帖の冒頭ですね。

光源氏が酷い高熱と震えに襲われ、まじないや加持祈祷をしても治らず、北山の優れた法力を持つ行者を訪れるシーンがあります。

これにより、同じく北山で母方の祖母に育てられていた幼い紫の上と出会い、物語が動いていく。

ある意味『源氏物語』を動かした病気と言えるかもしれません。

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』より/wikipediaより引用)

瘧病は「わらわやみ」=「子供の病気」と見なされていたこともありましたが、実際は大人の間でも大流行していました。

感染経路は?

というと、主にハマダラカが媒介するマラリア原虫によって感染します。

平安京は三方を川や湖に囲まれた土地の上、寝殿造の邸では池や遣水を設けることが多く、ハマダラカが繁殖するには格好の環境だったでしょう。

流行ってくださいといわんばかりの土地なのです。

実は第二次世界大戦の終戦後に、南方戦線から帰国した人々の一部がマラリアにかかっており、日本国内でも大流行が懸念されました。

しかし実際には、一時的かつ局地的な流行で済んでいます。

これはマラリアが他の疾患と比べて自然治癒しやすい病気だったから、というのが理由のようで。

平安時代の場合は、衛生環境が悪く、運動不足や栄養不足で病状が悪化することも多いので、終戦後ほどの回復ではなかったと思われます。

また、世界には、マラリアに強い遺伝子を持つ民族もいると言います。

もしかしたら平安時代でも、そういった体質の人がいて、その血を引く人々のほうが生き残りやすかったかもしれませんね。

 


眼病

平安時代に意外に?多いのが“目の病”です。

例えば『源氏物語』でも、光源氏が須磨を経て明石へ退いていた頃、朱雀天皇が一時的に失明したことが描かれています。

作中では朱雀天皇が

・父院(朱雀帝と光源氏の父・桐壺帝)に睨まれる夢を見て、起きたら見えなくなっていた

という内容でした。

光源氏が赦免され、帰京した後に「治った」とされていますので、ストレス性の疾患でしょうか。

『光る君へ』の舞台からは少し後の時代、三条天皇が目を患い、位を追われる一因となっています。

三条天皇/wikipediaより引用

三条天皇については、少しずつ目を病んでいたらしき記録があり、本人も自覚があったようなので、突然見えなくなるタイプの病気ではなかったのでしょう。

現代では「徐々に見えづらくなり、最終的に失明する」病気は

・白内障
・病的近視(網脈絡膜萎縮)
・加齢黄斑変性

などとされていますので、三条天皇も上記いずれかの病気に罹っていたのかもしれません。

糖尿病の合併症として起こり、突然失明する「糖尿病網膜症」や、視野が徐々に欠けていく「緑内障」は両目で見ていると自覚しづらいため、三条天皇の場合は当てはまらなさそうです。

また、藤原定子の弟・藤原隆家も、一時期眼病を患い、自ら名医のいる筑紫へ下向していたことがありました。

天下のさがな者(乱暴者)として知られた戦闘貴族・藤原隆家。

彼が九州にいたとき、たまたま【刀伊の入寇】があり、九州にやってきた異民族の襲撃を、この隆家が先頭に立って迎撃に成功しています。

目の病気が歴史を動かした一例かもしれません。

 

虫歯

現代では本人も辛く、他者から見ても気分のいいものではない虫歯。

平安時代となると、なんだか捉え方は変わっていて、虫歯を好意的に描いている部分が文学作品の中で散見されます。

まず『源氏物語』の「賢木」の帖では、東宮(のちの冷泉帝)が母・藤壺の宮に久しぶりに会うシーンで、こんな表現をしています。

「東宮が笑うと、虫歯で歯が黒くなっているのがお歯黒のように見え、かわいらしい」

この頃の東宮はまだ年齢ひとケタの幼児ですので、乳歯の虫歯でしょうか。

また『枕草子』の「病は」の段でも、変わった一文があります。

「18~19歳くらいで、髪が背丈ほどに長くて、よく太っていて色白で、愛嬌がある女性が歯をひどく病んで、押さえているのが面白い」

こちらは苦しんでいる人をあざ笑うようで……なかなか悪趣味な内容ではありますね。

後年のことわざで「目病み女に風邪引き男」なんて言葉もあるので、いつの時代も「少々の体調不良で弱っていると、いつもとは違って見えて魅力的だ」という価値観があったのでしょうか。

現代ではそんなことを言わずに、薬を飲むなり病院に行くなりしたほうが良いでしょう。

余談ですが、同じ口のトラブルでも「口臭」はやはり不快なものだったようです。

平安末期頃に描かれた『病草紙(やまいのそうし)』に「口臭の女」という絵があります。

『病草紙』口臭の女/国立国会図書館蔵

右の女性が口臭を患っている人で、左上の女性は何かを指摘している様子、左下の女性は袖で鼻を覆う様子が描かれていますね。

三人とも女官のようで、右の女性はあまりのニオイのため男性とイイ感じになれず悩んでいる――そんな話がついています。

当時は今のような高性能の歯ブラシやその他オーラルケアグッズなどもありませんし、そもそも臭いの原因も不明だったでしょうから、本人も周囲も辛かったことでしょう。

 

脚の病

『源氏物語』「夕霧」の帖にて――。

光源氏の息子・夕霧に迫られて受け入れられない落葉の宮が

「とても気分が悪くて、脚気が胸に上ってくるような心地がする」

と思い悩むシーンがあります。

このときまだ関係はなかったのですが、母の御息所には”既にそういう仲”と勘違いされていました。

御息所は以前から重病で伏せっており、落葉の宮としては病気の母をさらに悩ませてしまったことで心痛が増したのでしょう。

「古い時代の脚の病気」といえば脚気、というイメージがある方も多いかもしれません。

単純にいうと、ビタミンB1の欠乏によって神経障害が引き起こされ、脚の倦怠感や知覚異常などが起こり、心不全に至った場合には最悪死に至る病。

脚気による心不全は「脚気衝心(衝心性脚気)」と呼ばれ、近代まで多くの人物が亡くなっていいます。

有名な例としては、江戸幕府十四代将軍・徳川家茂とその御台所・和宮親子内親王でしょう。

徳川家茂/wikipediaより引用

落葉の宮の「胸に上ってくるような心地」というのも、脚気による心不全を表現したものに見えてきます。

なお、ビタミンB1は吸収率があまり高くなく、古い時代の日本ではあまり食べられていなかった肉や魚に多かったため、近代までは国民病とみなされるほどよくある病気でした。

ビタミンB1は雑穀や豆類にも比較的多く含まれ、精白米にはあまり含まれていません。

そのため、江戸時代では白米が好まれた江戸で脚気罹患者が多くなり、「江戸患い」とも呼ばれていました。

平安時代の庶民については食事に限らず記録が乏しいため憶測になりますが、おそらく米よりも雑穀を食べていたでしょうから、貴族層より脚気の罹患率は低かったと思われます。

 

麻疹

致死率はさほど高くない。

されど感染力が凄まじく、同室にいただけで空気感染(→昭和大学PDF)してしまい、免疫がなければ90%以上が発症してしまう――。

そんな凄まじさから「命定め」とも呼ばれ、あの徳川綱吉も麻疹にかかって亡くなったとされます。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

麻疹については、以下に詳しい記事がございますので、

命定め(麻疹)
綱吉の命も奪った“はしか”は「命定め」と呼ばれ 江戸時代に13回も大流行

続きを見る

麻疹の歴史
幕末の江戸では最大40万人が苦しんだ麻疹の歴史|甘く見てたら本当に危険です

続きを見る

おそれいりますが上記をご覧ください。

 

インフルエンザ

大河ドラマ『光る君へ』の第17回紀行で取り上げられたのは【祇園御霊会】でした。

祇園祭の起源と伝えられるもので、ここで注目したいのが【御霊会】という祭事です。

天変地異や疫病、怨霊などを鎮めるために始まったとされ、一番最初に行われた貞観5年(863年)の御霊会で対象とされたのがインフルエンザと考えられます。

病の特徴や時期が現在の症状や流行と似ているのです。

日本史のみならず人類にとって、長く脅威であり、今も恐ろしいインフルエンザ。

こちらについても以下に詳細記事がございますので、よろしければご覧ください。

御霊会
インフルエンザの恐怖は平安時代にも認識|日本初の『御霊会』は863年

続きを見る

 

物の怪

平安時代をはじめとした古来ならではの病気ですね。

当時は「病原菌」なんて概念はありませんので、病気は「神仏の怒りに触れたり、何かに取り憑かれたために起こるもの」と考えられていました。

病人が、文字通り「人が変わったかのような言動」をした場合には、特に「物の怪に憑かれたせい」と見なされたもので、平安時代の記録や物語には頻出します。

紫式部の存命中、あるいは近い時代の実例を挙げますと、

・『紫式部日記』敦成親王の誕生直前の藤原彰子

・三条天皇

といった記録が残されていて、『源氏物語』のストーリー上では、

・夕顔、葵の上、紫の上

・髭黒の大将の北の方

・宇治の大君、浮舟

などが物の怪に憑かれたとされます。

物の怪に取り憑かれた場合は、聖職者を呼んで加持祈祷をし、調伏あるいは退散させて治す必要があります。

また、取り憑かれた人から物の怪が出てきた際、周辺にいる別の人に乗り移ることも多く、そのために用意された人を憑坐 (よりまし)とも。

物の怪の正体は悪鬼や妖怪、死霊などが考えられましたが、ハッキリそうだという記録は残っていません。まぁ、当たり前ですけど……。

夕顔、葵の上、紫の上の三人は、全員が光源氏の若い頃の愛人・六条御息所に憑かれたということになっています。

六条御息所を描いた上村松園『焔』/wikipediaより引用

髭黒の大将の北の方については、話の流れからすると「夫の不実ぶりを気に病んで性格が変わってしまった」というようにも見えますので、現代でいうところのヒステリーかもしれませんね。

宇治の大君と浮舟は、同じく宇治でさまよっていた法師の死霊にとりつかれたとされます。

大君は取り殺され、浮舟は薫と匂宮の板挟みで悩んでいたところを取り憑かれ、屋敷からさまよい、横川の僧都とその妹尼に保護されました。

三条天皇については、ちょっと珍しいエピソードが伝わっています。

憑坐(よりまし)となった女房に襲いかかられた少年を三条天皇がかばって、自分が殴られた……というのです。

古代日本において最も尊い人が、名前さえ残らないような少年をかばったというのは特筆すべき出来事でしょう。

彰子や葵の上については、出産時の特殊な状態が物の怪とみなされた可能性も考えられそうです。

現代でも「陣痛~出産時に痛みのあまり普段では言わないようなことを叫ぶ」ということがありますよね。

普段おっとりした深窓の姫君が叫び出したら「何かに取り憑かれたのでは」と思うのも無理はない。

似たような状態に「狐憑き」がありますが、平安時代中期まであまりなかったようです。

藤原実資が『小右記』の長元四年(1031年)8月に狐憑きのことを記しているので、『源氏物語』の中にも一人くらいは狐に憑かれた人がいたかもしれませんね。


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【参考】
国史大辞典
日本大百科全書
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon
倉本一宏『平安京の下級官人』(→amazon
林望『謹訳 源氏物語』(→amazon
ほか

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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