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【後鳥羽上皇】
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譲位後には和歌に熱中
心身ともに成長したこともあってか。
後鳥羽上皇は土御門通親や近辺の公家を整理し、どこか一つの家に偏らない政治形態を作ろうとしました。
平家の興亡に関する話を詳しく聞かされ「同じことは二度と繰り返してはならない」という意思を持っていたのかもしれません。
一方で古来からの儀式や作法の再興・整備にも取り組みました。
これは貴族たちからしても願ったり叶ったりというところ。
なにせ科学の未発達な時代ですから、神や先祖への祭祀が国の行く末を左右すると本気で考えられていたのです。
また、後鳥羽上皇にはかなりの財力がありました。
後白河法皇から相続した領地や、当時、存命中だった女院・内親王たちの領地を後鳥羽上皇が管理していたためです。
いくつかの御所を築き、特にお気に入りだった水無瀬離宮には、たびたび貴族たちを呼び寄せて遊びに興じたとされています。
ここだけ聞くと「豪遊するご隠居」といったイメージが先行してしまうかもしれませんが、源平合戦で分断された貴族たちを再び皇室に結びつけるには、私的な場面も必要だったのでしょう。
現代でいう「無礼講」のように、気軽な雰囲気の催しもあったようです。
当時はまだ新しい衣類だった「水干」を着るよう貴族たちに指示し、上皇自らも着てみせた……なんて話があります。
この辺の柔軟さというか遊びっぷりは、祖父である後白河法皇の血がうかがえますね。
一方で後鳥羽上皇は信仰心も厚く、伊勢や熊野への行幸を多々行いました。
「神器なき即位」をしたからこそ、より多く神仏の加護を求めたのかもしれません。
和歌史上最大の歌合わせを開催
また、譲位した後くらいの時期から、後鳥羽上皇は和歌にも熱中し始めました。
治天の君(=実際に政治を取り仕切っている皇族)になって忙しいはずですが、積極的に歌会や歌合わせ(和歌の競技会)を開くようになったのです。
例えば、藤原俊成・藤原定家の親子を中心とした”御子左家”の歌風を特に気に入り、彼らとその縁者に参加を求めています。
俊成を和歌の師としてからは、後鳥羽上皇自身の歌のグレードも格段に上がり、自分の成長と同時に若い歌人も詠進を求め、歌壇全体がレベルアップ。
建仁元年(1201年)7月には、1500番という超大規模な歌合わせを催しています。
30人の歌人に命じて100首ずつ歌を出させ、披露や勝敗は決めないものでしたが、それでも和歌史上最大の歌合わせです。
さらに、同年11月には定家らに命じて、この「千五百番歌合」などをベースにして勅撰和歌集の編纂を命じました。
古典でもおなじみの『新古今和歌集』です。
『新古今和歌集』の歴史と20首に注目!後鳥羽上皇が定家に編纂させた
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後鳥羽上皇自身も積極的に歌選びや並び順に意見を述べたということが、定家の日記『明月記』などからわかっています。
「自分が好きなものを大いに盛り上げたい」という姿勢とその規模がさすが天皇(上皇)ですね。
そういえば祖父の後白河法皇も「やりすぎでは?」というレベルで今様(当時の流行歌)を愛好していました。
遊び方もハンパじゃない後白河法皇~血を吐くほど今様を愛し金銀でボケる
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凝ってしまうのは血筋なんでしょうか。
後鳥羽上皇の父である高倉天皇も、長生きしていればそういう面が見えたのかもしれません。
人もをし 人も恨めし あぢきなく
後鳥羽上皇の和歌への熱狂ぶりはかなりのもので、お忍びで町中の賭け連歌の会へ出向いて勝ったこともあったとか。お茶目かいな。
それだけに御製(ぎょせい・天皇や皇族の詠んだ歌)もかなりの数に登り、今回はごく一部を「意訳」とともにご紹介しましょう。
吹く風も をさまれる世の うれしきは 花見る時ぞ まづおぼえける
【意訳】風や戦の収まった世を最も嬉しく感じるのは、桜を心ゆくまで見られるときだ
承久の乱の前、建暦二年(1212年)の春に、内裏の「左近の桜」を見て詠んだものだといわれています。
最近は「和歌は昔の人のツイッター(X)」という意見もありますように、身近な文物への感動を表した歌は、まさにそんな感じですね。
そして、百人一首99番に採られ、おそらく後鳥羽上皇の御製で一番有名な歌がこちらです。
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故に もの思ふ身は
【意訳】世の中のために何かを考えていると、人間のことを愛おしいとも、恨めしいとも思う
承久の乱の数年前に詠んだとされているこの歌。
源実朝のスピード出世などを考えると、後鳥羽上皇も幕府とどう付き合っていくべきか、かなり悩んでいたのではないか……と思えてきます。
時系列が前後してしまいますが、流刑後の歌も少々見ておきましょう。
夕立の はれゆく峰の 雲間より 入日すずしき 露の玉笹
【意訳】夕立が上がった山にかかる雲の間から陽が差して、笹に残っている露を照らしているのがなんとも涼しげだ
われこそは 新島守よ 隠岐の海の あらき波かぜ 心して吹け
【意訳】我こそは、この島の新しい守り人であるぞ。隠岐の波風よ、心して迎えるがいい
ベースはシンプルに、天皇らしい優美さと、個人的な剛毅さ、そして内心のコンプレックスや気負いなどがなんとなくうかがえる歌が多い気が……。
一方で、後鳥羽天皇は武芸も好んでいます。
自ら弓を取って射撃の練習をしたり、蹴鞠や相撲に興味を示したり。
多趣味というかエネルギッシュというか。なかなかのマッチョだったようで、溢れるパワーの消費しどころを探っていたようにも見えます。
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