後鳥羽上皇

後鳥羽上皇/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

なぜ後鳥羽上皇は幕府との対決を選んだ?最期は隠岐に散った生涯60年

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所領の利権でも地頭と揉めて

後鳥羽上皇が幕府に対して不審を抱く出来事は他にもあります。

実朝の暗殺と同じ年のうちに、こんな事件が起きています。

「内裏守護である源頼茂(摂津源氏の人・頼朝たちの遠い親戚)が西面武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って討死する」

この事件では被害が大きく、内裏を再建する羽目に陥っています。

そのための人手を出すよう、後鳥羽上皇は全国へ命令を出したのですが……東国の地頭たちがこれを拒否しました。

幕府ができて既に20年近く経っており、東国生まれ(育ち)で京を知らない若い世代からすれば

「どこの誰かもわからんヤツのため、なぜ人と金を出さなきゃならんのだ?」

と思っても不思議ではありません。

また「西面武士」というのが後鳥羽上皇の設けた新しい役職だったため、これも東国武士にしてみれば

「そもそもは朝廷の責任じゃないか。んなもん知らんがな」

と思えても仕方ないでしょう

西面武士というのは、後鳥羽上皇の親衛隊みたいなものです。

そのため後鳥羽上皇は「最初から幕府と対決するつもりだった」とも言われたりしますが、平家の専横で荒れてしまった京で、警護を強化するのは不自然でもなんでもありません。

少し前に源頼朝が上洛したときも、鎌倉武士同士で刃傷沙汰が起きていますしね。

最終的に内裏の再建については西国各地からの費用で賄われ、その負担はかなりのものだったはず。

結果、後鳥羽上皇が幕府や東国への印象を損ねたことは間違いないでしょう。

後鳥羽上皇としては「自分が日本全体の主君だ」という自負があるわけです。

また、上皇が寵姫・伊賀局の領地の地頭を廃止してほしいと幕府に訴え、それを拒否されたことも機嫌を損ねる一因になったと思われます。

ややこしい話ですが、当時の土地は、朝廷の役職である「国司」(だいたい貴族・◯◯守とか)と、幕府の役職である「守護」「地頭」(どっちもほとんど武士)が混在していたため、徴税等に関するトラブルが頻発していました。

守護や地頭が先に徴税してしまうと、国司に収める分の税がなくなり、地元民も朝廷も困窮する……といった具合です。

金銭(食糧)面からしても公武の衝突は不可避だったとも言えそうです。

 

承久の乱

こうして幕府に対する悪印象を積み重ねていた後鳥羽上皇と朝廷の人々。

承久三年(1221年)5月14日、ついに彼らは覚悟を決めます。

後鳥羽上皇は流鏑馬を口実に諸国の兵を招集し、招集に応じなかった御家人・伊賀光季や親鎌倉派を粛清して、倒幕の兵を挙げました。

藤原秀康に命じたシーンは大河でも描かれましたね。

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我々は結果を知っていますので、この手の動乱については『やっちまったな……』という印象を持ちがちです。

しかし、少なくとも乱が始まる前の後鳥羽上皇陣営はイケイケ!

西面の武士だけでなく、鎌倉幕府の主要御家人を幾人か配下に従えていたので、いざ戦が始まれば味方に引き入れると踏んだのでしょう。

後鳥羽上皇はもともとリーダーシップに優れており、武士に慕われる要素も持ち合わせていました。

ゆえに挙兵した段階では、少なくとも畿内周辺は味方だらけになってもおかしくない――そんな皮算用をしたくなるのも無理はありません。

しかし、現実は厳しいものでした。

院宣を出して2ヶ月後には北条義時の嫡男・北条泰時が軍を率いて上洛し、主に乱に関わった後鳥羽上皇や順徳天皇が配流となるボロ負けに追い込まれるのです。

鎌倉方も当初は確かに動揺していました。

しかし、北条政子の大演説や、長老・大江広元らの叱咤などにより、士気を取り戻したのです。

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鎌倉方が結束する前に、朝廷軍が鎌倉近辺まで進行できていれば、話は変わったかもしれませんが……当時の通信事情では、そんなことわかりっこないですよね。

「兵は神速を尊ぶ」とはよくいったもの。

破竹の勢いで進んできた幕府軍が、京都の入り口である宇治川の戦いで藤原秀康らを破ると、もはや上皇方に為す術はありませんでした。

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宇治川を突破されると、あとはなすがまま。

満足な防御施設のない御所はすぐに陥落し、その後は皆さんご存知の通り、後鳥羽上皇は隠岐への流罪が決まります。

共犯だった三男・順徳上皇も佐渡へ流されました。

なお、このとき関与していなかった後鳥羽上皇の長男・土御門上皇は、当初はお咎めなしだったのですが、自らこんな申し出をします。

「父や弟が流されてるのに、私だけ京にいるなどできない。自分も流刑にせよ」

幕府も気を遣ってか、こう答えています。

「それほど仰られるのでしたら、都からは出ていただきますが、近いところにしますね」

そして最初は土佐(現・高地県)に、次に阿波(現・徳島県)を配所にしました。

土御門上皇自身が寛喜三年(1231年)に亡くなっているため叶いませんでしたが、鎌倉幕府としては、ほとぼりが冷めれば京へ戻すつもりだったかもしれませんね。

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他に、後鳥羽上皇の孫で順徳上皇の息子である仲恭天皇も廃位となり、その系統は皇位から遠ざけられることになります。

代わって、仲恭天皇の次には、後鳥羽上皇の兄で安徳天皇の弟である守貞親王(後高倉法皇)の皇子・後堀河天皇が立ちました。

院政は後高倉法皇が行っています。

 

「隠岐の牛突き」

話を後鳥羽上皇に戻しましょう。

後鳥羽上皇は京都を出る直前に出家し、法皇として隠岐の地を踏みました。

もともと蹴鞠や楽器、相撲に水練など多趣味なお方ですから、配流先での無聊を慰めるものには事欠かなかったと思われます。

むしろみなぎる闘志の表れか、元久二年(一二〇五)に作られていた『新古今和歌集』にさらに手を入れ、「隠岐本」と呼ばれるバージョンを作っていました。

現代風でいうなら新訂版みたいな感じですかね。

ただし、都を懐かしんでか、隠岐での歌は

軒は荒れて 誰 (たれ) かみなせの 宿の月 過ぎにしままの 色やさびしき

といったように、物悲しさが勝る物が多いように見えます。

隠岐で暮らす地元民からは「おいたわしや」と思われていたようです。

現代に伝わる「隠岐の牛突き」は、離島で不遇をかこつ後鳥羽上皇を慰めるために始まったとか。

牛同士の相撲といった感じの競技で、ときには一時間以上に及ぶ取り組みもあるそうです。牛の体力、すごいですね。

後鳥羽法皇は隠岐でも多くの歌を詠んでいますし、配流先の生活も気が滅入るばかりではなかったのかもしれません。

少なくとも周囲から嫌われていたら、島民も積極的に慰めようなどと思わなかったでしょう。

その後、後堀河天皇が22歳という若さで亡くなったため、当時の都人は

「後鳥羽上皇は生霊になり、後堀河天皇を取り憑き殺した」

と思っていたようですが、さすがに不名誉すぎかと。

後鳥羽上皇が狙うなら北条義時であり、先に亡くなっています。

最後にもう一つ、後鳥羽上皇に関するエピソードをご紹介しましょう。

後鳥羽上皇は京都にいた頃、お抱えの刀工に刀を打たせ、自らも焼刃を入れる……ということを頻繁に行っていました。

刀には「十六弁の菊紋」を彫り込んだといわれています。

これを「御所焼」や「菊御作」と呼び、菊紋のはじまりとみなされるようになりました。

現代でも、花びらが十六枚の「十六菊紋」は皇族だけが使える紋章です。

武家政権の台頭を(不本意ながら)決定づけたことと、菊の御紋。

後鳥羽上皇は日本史に最も大きな影響を残した天皇……といってもいいかもしれませんね。

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長月 七紀・記

【参考】
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)』(→amazon
本郷和人『承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)』(→amazon

国史大辞典
世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
隠岐の島(→link

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