平宗盛

平宗盛/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

史実の平宗盛は平家を滅ぼした愚将なのか?鎌倉殿の13人小泉孝太郎

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の平清盛、凄まじい迫力でしたね。

有無を言わせない松平健さんの眼力。

周囲にいる者たちは、右往左往しながら命令を聞くしかありませんでしたが、本稿で注目したいのは、その中にいた一人。

元暦2年(1185年)6月21日に亡くなった平家の跡取り――小泉孝太郎さんが演じていた平宗盛です。

史実においては清盛の継室(後妻)の長男で、実力が抜けていたワケではなく、兄の重盛が亡くなったから嫡男の座が回ってくるような微妙なポジの方でして。

その後、平家が滅亡に追い込まれるからなのか。『平家物語』でも酷い言われようだったりします。

いったい平宗盛とはどんな武士だったのか。

生涯を振り返ってみましょう。

 

生まれは微妙だが、平重盛とは割と仲良くやっていた

久安三年(1147年)。

平宗盛は、清盛の継室(後妻)の長男というビミョーな立場に生まれました。

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清盛の最初の正室の子である長兄・重盛の出来が良かったので、嫡男ともいいきれず、かといって十把ひとからげにするにも体裁が悪いという立ち位置だったのです。

とはいえ、重盛とは10歳離れていたので、あまりぶつかり合うことはありませんでした。

もっと歳が近かったら血で血を洗うような状況になっていたかもしれませんね。

若い頃は重盛と代わりばんこのような形で出世していき、仁安二年(1167年)、清盛が太政大臣の位を降りて隠居してからは、跡を継いだ重盛の次に宗盛が位置します。

また、宗盛は母・時子の異母妹である滋子(後白河法皇妃・建春門院)に仕えていたので朝廷とのパイプもあり、滋子の同母妹・清子を妻に迎えていました。

これまたヘタに能力がある人だったら野心を抱きそうな構図ですね。

 

清盛のクーデターの後始末を……

相変わらず重盛との密かな官位競争は続いていながら、重盛が清盛の後継者であることが明確になったため、感情的な面で二人の関係が悪化することはなかったようです。

しかし、このタイミングで滋子が亡くなったため、清盛と後白河法皇の関係が悪化。

平宗盛は上記の通り、滋子に仕えていたこともあって、後白河法皇と比較的良い関係を保っており、重盛と共に仲裁に努めた事もありました。

この辺から宗盛が貧乏くじを引き続けているような気がします。

まず、後白河法皇の子・高倉天皇に嫁いでいた妹・徳子が懐妊したとき、宗盛の妻・清子が乳母に選ばれたのですが、その後、清子が急死してしまいました。

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夫婦に特別なエピソードはないものの、宗盛は自ら辞職するほど悲しんだそうですから、よほど仲の良い関係だったのでしょう。

宗盛はこれ以降、自分からは政治に関わろうとはしなくなります。

しかし、そうも言ってられなくなりました。

長兄の重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったのです。

おまけに重盛の領地を後白河法皇が強引に召し上げたことが発端となり、清盛は法皇に対しクーデターを敢行。

朝廷のお偉いさんを平家と親しい人ばかりに入れ替え、後白河法皇を幽閉して福原に引き上げるという暴挙を働きました。

このときの後始末を押し付けられたのが宗盛さん……。

しかしまだ政治経験が豊富とはいえない状態でやらされたので、結局は清盛が再び処置をしています。二度手間じゃねーか。

 

政治からは離れたものの軍事面ではまだまだ活躍

これに懲りたのか。

清盛の孫であり、平宗盛にとっては甥の安徳天皇が即位したときも、積極的に政治へ関わろうとはしていません。

代わりに?軍事職には就いています。

後白河法皇の第三皇子・以仁王が挙兵した時には、宗盛を含めた平家軍がこれを討ち取り、その褒美として宗盛の息子・清宗が叙爵を受けていますので、武働きをするのは嫌ではなかったようです。

まぁ、そのくらいはしないと今度は自分が粛清されてしまいますからね。

しかし、ここまでのやりたい放題で既に民心は平家から離れており、源頼朝をはじめとした平家討伐の軍が起こります。

こうなるとやはり宗盛も黙ってはおれず、【富士川の戦い】で平家軍が逃げ帰ってきたとき、宗盛は清盛と激しい口論を繰り広げたといわれています。

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元々従順だった上、しばらく政治から遠ざかっていた宗盛までもが清盛に反対したということは、平家の行く末を暗に示していたとも言えましょう。

ここで安徳天皇の父・高倉上皇が崩御し、後白河法皇が院政を再開することになりました。

この時点でも宗盛はまだ朝廷とのパイプを持っていたらしく、高倉上皇の遺命として、近畿一帯の軍事指揮権を与えられています。

宗盛は準備を整えて関東へ攻め込む気でいたようでしたが、このタイミングで清盛が病気になったため、延期せざるを得ませんでした。

この間に源氏は勢いを増してしまっています。

当時の人も「もう嫌な予感しかしない」と思っていたかもしれません

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