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【平宗盛】
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平家物語でボロクソに書かれてしまう
平宗盛としては大宰府で体勢を立て直すつもりでいました。
しかし、これも失敗。
後白河法皇も「もうあいつら知らん」とさじを投げ、木曽義仲に平家追討を命じます。
ここでビミョーに運の良いことに、源氏内で仲間割れが起きたため、瀬戸内海の屋島・彦島で足固めをすることができました。
義仲と宗盛の間で一時和平案も出されました。
しかし、お互いに信頼しきることができず、実現しないままに終了。
ここで和平を取り付けられていたら、平家の血筋は残り、義仲も大手を振って源氏で重きを成すことができたのでしょうね。
現実には皆さんご存知の通り、義仲は範頼・義経兄弟に打たれ、平家は
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を経て滅びてしまっています。
ここからが平家物語で宗盛をボロクソに書いている部分です。
「壇ノ浦の戦いで平家の主だった人物が海に身を投げたとき、宗盛は命を惜しんで逃げ回っていたので、呆れた味方が突き落とした。しかし宗盛は泳ぎがうまかったので助かってしまった」
という話です。
実にみっともなく描かれております(´・ω・`)
皆の前で命乞い!って、そりゃ嘲笑されるやろ
平宗盛は、息子・清宗とともに義経によって鎌倉へ護送され、頼朝の前に引き出されました。
このとき源頼朝は御簾の内側にいて、息子・頼家の舅である比企能員(ひきよしかず)を通して会話したといいますから、かなりの屈辱を感じたことでしょう。
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しかも周りにはかつて平家に仕えていた者も集まっており、その前で宗盛は命乞いをしたため、周りから嘲笑されたといわれています。
確かにみっともないといえばみっともない話ですが、既に末路が見えている人に対してよってたかってヒドイ。
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しかし、宗盛は鎌倉では死んでいません。
清宗と一緒に、再び京都へ送り返されています。
「かつて源義朝が家来に裏切られて殺された、尾張内海で処刑されるのだろう」と思っていたそうですが、そこを通り過ぎたので、わずかな期待を抱いていたとも言われています。
この時点では(も?)息子のほうが冷静で、清宗は「そんなわけはない。もう夏だから、もっと京に近づいてから斬られて、首をさらされるに違いない」と思っていました。
しかし、父が少し明るい顔になったところへそんなことを言ったら、追い討ちをかけることになってしまいます。
ですから、清宗は黙っていました。
斬首された首が京へ送られ、市中引き回し
果たして清宗の予想通り、近江篠原というところで平宗盛は息子と引き離されます。
そこで宗盛も流石に悟り、「これまで恥をさらしてきたのも、息子のことが気にかかって仕方なかったからだというのに、あんまりな話だ。たとえ首を打たれても、体は同じむしろに横たわろうと約束していたのに」と嘆きました。
が、時既に遅し。
まず宗盛が首を落とされ、その様子を聞いた後で清宗も同様に処刑されました。
二人の首は京都に送られ、市中を引き回されたといいます。
それは前例のないことでした。
生きてからも死んでからもこのような屈辱を味合わされたとなると、壇ノ浦で果てていたほうがよかったかもしれません。
妻や息子に対する情の深さからして、もしもっと平家が安定していた状態で家を継いでいたら、宗盛への評価は違ったものになっていたのではないかと思います。
将としての能力がイマイチだったことはともかく、家庭人として良い人だったことは間違いないですし……甘すぎますかね?
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon)
平宗盛/Wikipedia
日本古典文学摘(平家物語)(→link)