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【北条氏に二度滅ぼされた三浦一族】
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三浦氏を滅亡に導いた宝治合戦は、なぜ起きたのか
宝治合戦は、宝治元年(1247年)六月、義村の子・三浦泰村と、五代執権・北条時頼(北条義時の曾孫)に勃発した。
「三浦氏の乱」ともいう。
代々の得宗(北条氏惣領の家系)は常に三浦氏と婚姻関係を結び続けていたが、北条時頼と三浦氏の間に婚姻関係はなかった。
発端は、寛元四年(1246年)に起きた「宮騒動」と呼ばれる内訌である。
北条氏の支流・名越光時は、前将軍・九条頼経(関白道家の四男・源頼朝の遠縁にあたるため将軍に迎えられた)を擁して、時頼から執権の地位を奪おうとした。
だが、頼経は京都に送還され、未然に阻止された。
これが宮騒動だ。
この事件に、三浦泰村の弟・光村が関わっていたことから、三浦氏と北条氏の間に溝が生じる。
また、泰村誅伐の予告のような立て札が立ち、鎌倉は緊張に包まれた。このような状況を打開するため、北条時頼は和平工作を続け、三浦泰村も「野心はない」と弁明した。
ところが、三浦と北条の距離が縮まることはなかった。北条氏の外戚で、三浦氏と勢力を競っていた安達景盛が、両氏の和平を阻んだからだ。安達景盛は、武装解除していた三浦邸を急襲させた。
三浦泰村は応戦し、宝治合戦が始まった。
こうなっては、北条時頼も参戦せざるを得ず、五〇〇騎をもって三浦邸を襲撃させ、火を放った。
追い詰められた泰村・光村の兄弟を初めとする三浦一族は、頼朝の墓所法華堂に退き、一族二七六人、郎従家子二二〇人が自害した。
三浦一族が自害の場に頼朝の墓所を選んだ理由は、頼朝を支え、頼朝の幕府とともにあった一族の歴史と立場の確認と、その保持のためだったという。(『三浦一族の中世』高橋秀樹)
かくして、鎌倉幕府草創の豪族・三浦氏宗家は、ここに滅びた。
しかし、三浦一族が根絶やしになったわけではない。
三浦泰村の異母姉・矢部禅尼の子の光盛、盛時、時連らが、北条氏について生き残り、盛時が宗家の「三浦介」を継いだ。三浦道寸の名で知られる新井城主・三浦義同は、この系統である(ここでは三浦道寸で統一)。
三浦氏の事実上の最後の当主となる三浦道寸は、再び北条氏に滅ばされることになる。
三浦道寸と、もうひとつの北条氏
三浦道寸は、扇谷上杉高救(道含・どうがん)と大森氏頼(寄栖庵)の娘の子である。
その道寸が、新井城主となり三浦氏を継ぐまでの経緯は、三浦介の称をつぐ相模新井城主・三浦時高の養子となったが、時高に実子・高教が生まれたため不和となり、道寸が時高を攻め滅ばした、とするのが定説であった。
しかし、近年、この説は、疑問視されている。(黒田基樹氏『戦国期の三浦氏』[三浦一族研究]七 2003年)
いずれにせよ、道寸は三浦氏を継ぎ、新井城には子の義意(よしおき)を置き、自身は岡崎城に移った。
そんな道寸の前に立ちはだかったのが、伊勢宗瑞である(ここでは北条早雲で統一)。北条早雲の名で知られるが、北条姓を称したのは、早雲の嫡男・氏綱からだ。
鎌倉北条氏の直接の後裔ではない。後北条、小田原北条などと呼ばれる「もうひとつの北条」である。
三浦氏二度目の滅亡
道寸は、伊豆、西相模へと勢力を拡大し、相模支配を狙う早雲と対決する。
永正九年(1512年)八月、早雲は道寸の岡崎城を攻める。三浦軍は早雲軍の猛攻をよく防いだものの敗れ、住吉城(逗子市)に退いた。
ところが、住吉城も早雲軍の勢いを止めることができず、道寸・義意の親子は最後の砦・新井城に、約二〇〇〇の兵とともに籠もった。
新井城は、小綱代湾と油壺湾の間の岬に位置し、三方を切り立った断崖と海で囲まれた要害だ。大磯や小田原まで見渡せ、城内には二〇〇〇俵もの米が貯えてあったと伝わる。
さしもの早雲も、この鉄壁の要塞は、力攻めで攻略できなかった。
早雲は菊名の陣場原に陣どり、援軍と兵糧を絶つ持久戦に転じる。
道寸が頼りとしていた扇谷上杉氏からの援軍は、早雲の軍に阻まれ、三浦まで到着できなかった。海上も制圧され、徐々にジリ貧に陥っていく。
それでも三浦軍は、六~七千といわれる早雲軍を相手に三年以上もちこたえた。部将の大森越後守らは道寸に、義意の岳父に当たる上総真理谷の武田信勝を頼って退却し、再起を図るよう勧めた。
だが、道寸は聞き入れなかった。
そして、永正一三年(1516年)七月一〇日、兵糧尽きた三浦道寸・義意父子は城外に打って出て、早雲軍の先陣を二町ほど蹴散らした後に、家臣ともども壮絶な討死を遂げたという。
道寸五三歳、義意二一歳であった。
なお、「油壺」の地名は、この戦いで湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したかのような状態になったことに、由来するといわれている。
かくして、三浦氏は滅亡した。
三浦氏は、鎌倉北条と後北条の二つの北条に、二度滅ぼされたのだ。
三浦氏を滅ぼした後北条氏は、関東の覇者となり、小田原を起点に五代百年帝国を作り上げる。
しかし、その後北条氏も、豊臣秀吉の小田原征伐の前に、自慢の支城ネットワークも崩され、戦国時代の終焉とともに滅亡するのであった。
文:鷹橋忍(著作一覧→amazon)
※編集部より
本記事は鷹橋忍氏の御著書『滅亡から読みとく日本史 (KAWADE夢文庫)』(→amazon)より「三浦一族の滅亡」について抜粋・掲載させていただいたものです。
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