りく(牧の方)

源平・鎌倉・室町

史実のりく(時政の後妻・牧の方)は悪女か?鎌倉殿の13人宮沢りえ

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重忠の首を見た義時は

まずは子の畠山重保を討ち、そして次に、釈明のため鎌倉へ向かっていた畠山重忠を殺害。

重忠の首を持ち、戻ってきた義時は悔恨の念で語ります。

「重忠の一族親類は、ほとんど周りにいなかった。戦場まで付いてきた者は、わずかに百余輩。これで謀反を企だてていたわけがないだろう! 嘘を訴えられて殺されてしまったんだ! なんてことをしてくれたんだ、俺は、俺は……首を見たら……長年のお互いの仲を思い出して、涙が止まらなかった!」

北条義時が感情を露わにした記録は少なく、ここで激情が一気に溢れ出したかのように思えます。

北条義時
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ずっと親しくしてきた戦友の首を、こんなことで目にするとは!

そう訴える義時を前にして、時政は言葉を失っていました。

怒りを抱いたのは義時だけではありません。重忠の親友であった三浦義村もまた激しい激情に駆られ、事件に関わったとされる稲毛重成の一党を斬り捨てたのでした。

三浦義村
殺伐とした鎌倉を生き延びた三浦義村の“冷徹”鎌倉殿の13人山本耕史

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坂東武士の鑑とされた重忠の惨殺は、鎌倉を沸騰させました。

われわれ鎌倉御家人が敬愛する畠山重忠は、北条時政のせいであんな酷い死に方をした!

父の命を受けた義時は、いったんは退けたという。

しかし、あの女狐が、悪女が、時政を唆し、義時が断れないように策を弄した!

そのせいで、重忠は死んだ!

時政とりく(牧の方)は一気に人望を失い、逆に義時への支持は高まる一方。さらに畠山旧領が御家人に恩給されると、それが北条政子の配慮であるという噂も流れます。

鎌倉の御家人たちの気持ちは固まりました。

時政と牧の方は最低だ!

義時と尼将軍は最高だ!

そんな凋落に気づかなかったのか。時政とりく(牧の方)という策士は策に溺れ、二人は新たに愚かな陰謀を企てます。

三代将軍・源実朝を廃し、平賀朝雅を新たな鎌倉殿として擁立しようとしたのです。

 

「牧氏事件」

時政とりく(牧の方)が婿の朝雅を擁立しようとしたのは元久2年(1205年)のこと。

計画は呆気なく終わります。

政子と義時が、時政の邸から実朝を引き取り、義時の邸に移したのです。御家人たちの選択もわかりきっていたことでした。

潮が引くように誰もいなくなった邸で、時政は唖然とします。

もはやこれまで。出家して願成就院明盛となり、伊豆へ引きこもったのです。

京都の平賀朝雅は、山内首藤経俊の子・通基に討たれました。

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そしてこの陰謀から十年後の建保3年(1215年)、時政は世を去ります。

りく(牧の方)の没年には諸説あります。

平賀朝雅の妻であった娘は、公家の権中納言・藤原国通と再婚しました。

りく(牧の方)はこの京都の娘夫妻のもとで贅沢気ままに暮らしていたともされます。

時政の没後か、あるいは伊豆について行かなかったのか。途中の経緯は不明ですが、藤原定家(1162-1241)の日記『明月記』には、彼女について批判的に記録が残されています。

嘉禄3年(1227年)3月、国通の邸で夫・時政の十三回忌を行い、一族を引き連れ、諸寺詣を行っていた。

 

京都と鎌倉の対立

りく(牧の方)が京都でそれなりに優雅な暮らしをしていたこと。

時政の追悼が、鎌倉ではなく京都で行われ、さらにそこに大勢の出席者がいたこと。

こうしたことを踏まえると、二人が陰謀を企て失脚した【牧氏事件(牧氏の変)】は、なかなか根深いものがあると感じます。

それは京都と鎌倉の対立です。

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時政は伊豆出身でありながら、京都へ傾斜してゆく。

そんな時政からすれば、りく(牧の方)は、自分を正しいところへ先導する女神だったかもしれません。

しかし、政子も、義時も、他の関東の者たちも、それを許さなかった。

争いは、ただの悪女とそれに籠絡された男の暴走ではなく、東西の衝突といえるのではないでしょうか。

そしてこの【牧氏事件】も、来たる【承久の乱】の前座だったかもしれません。

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公式サイトで宮沢りえさんは、こう語っています。

三谷さんからは「今まであったような“悪女・牧の方"というふうには描きたくない」とお言葉をいただきましたので、時を経た今、どうして彼女が“悪女”といわれる生き方をしてきたのかということが、脚本の中にすごく詰まっているんじゃないかと思っています。

彼女一人が悪いのか?

それとも時代ゆえの存在だったのか?

史実ではとかく悪女とされがちなりく(牧の方)が『鎌倉殿の13人』ではどう描かれるのか。

今から楽しみでなりません。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
奥富敬之『鎌倉北条一族』(→amazon
奥富敬之『源頼朝のすべて』(→amazon
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』(→amazon
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon
ほか

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