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【和田義盛】
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壇ノ浦の戦い
佐竹氏の動向に一段落つくと、源氏軍はいったん鎌倉へ戻り、諸々の統治機関を設けました。
義盛が与えられた職が侍所の別当。
ドラマでもちょっとしたシーンになりましたね。
少し補足しますと、侍所は、もともと皇族や公家の屋敷を警備する侍の待機所を指し、鎌倉幕府では警備の他に裁判所の機能も持っていました。
有事の際には御家人の統率も担う大役です。
大河の劇中では、かなり猪武者な義盛ですが、本人の経歴や能力からしても、妥当な人選といえるでしょう。
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この後しばらく、義盛は侍所別当としての仕事に専念していたようで、木曽義仲の討伐や【一ノ谷の戦い】には参加していません。
義盛が再び前線に立つのは元暦元年(1184年)8月。
源範頼を大将とする平家追討軍が出発するときです。
範頼は義盛とよく相談して兵を進めたようですが、不運なことに【養和の飢饉】の影響が抜けきれておらず、兵糧の調達などに苦しみました。
文字通り「腹が減っては戦はできぬ」というもので、遠征軍の士気はどんどん下がっていき、範頼から頼朝へこんな手紙が送られています。
「みな本国を懐かしみ、義盛までもが密かに鎌倉へ帰ろうとする始末です。他の者達については言うまでもありません」
この一件については、義盛は他の将兵と共に頼朝からお叱りを受けています。
しかし、源範頼が大将だったからこそ、士気が下がる程度で済んでいたのかもしれません。
短慮な大将のもとで同じ事態に陥っていたら、平家との一戦前に身内で仲違いしていた可能性もあるでしょう。
兵糧や船の調達ができた翌元暦二年(1185年)、範頼軍は再び動き始め、義盛は北条義時や足利義兼と共に豊後へ渡りました。
このころ九州の武士たちは平家方が多かったため、先にこちらを叩いておき、平家本隊との合流を防ぐのが狙いでした。
足利義兼は、その名の通り源氏の一門です。
源義家の孫である足利義康から始まり、義兼はその息子です。
しかも義兼の母は熱田大宮司家の娘であり、さらに正室は北条時政の娘でもあったので、頼朝とは父・母・妻と三重の縁がありました。
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その割には、あまり目立たない人物ですよね……。
おそらく頼朝が亡くなった2ヶ月後に義兼もこの世を去っていて、その後の鎌倉幕府内での権力闘争に巻き込まれなかったからだと思われます。
また義兼は、足利学校を創設した候補者の一人です。諸説あって定かではありませんが、もしかしたらその点でご存知の方もおられるかもしれません。
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経験豊富で忠義に厚い義盛。
この時点ではまだ北条の若殿だった義時。
源氏一門の義兼。
大将が諸将を立てる源範頼であったことも幸いしてか、豊後の戦いから壇ノ浦に至るまで、彼らの間にトラブルはなかったようです。
そして迎えた壇ノ浦の戦い――義盛個人については『平家物語』の中に逸話があります。
義盛は当初、舟には乗らず、渚から二~三町(約218~327m)離れた平家方に向かって自分の名を記した矢を放ち、
「できるものならこの矢を射返してみせよ」
と挑発しました。
【屋島の戦い】における那須与一の話(扇の的)がそうだったように、”挑発されて黙っているのは武士の名折れ”という価値観の時代です。
当然、平家もそのままにはしておけません。
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平家の大将・平知盛も弓の名手を探し、伊予の武士・仁井親清が義盛の矢を射返してみせたといいます。
挑発してしっぺ返しをくらったのですから、義盛としてはなんともバツが悪い。
怒った義盛は戦場で激しく戦ったという話です。
義盛にとっては、いささかカッコ悪い話であると同時に、平家も武門としての意地を感じる場面ですね。
清盛の時期から平家は貴族化したといわれていますが、武士としての特徴もしっかり持っていたんですね。
ただし、もはや形勢の差はいかんともしがたく、源氏が勝利し、平家は滅亡しました。
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奥州藤原氏討伐
壇ノ浦の戦いが終わり、平家を滅ぼすと、待っていたのは源氏お得意の身内争いです。
平家を滅ぼした軍略の天才・源義経が、兄の頼朝と対立したのです。
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結果は、頼朝の政治力が勝っていました。
義経はかつての庇護者である藤原秀衡を頼って奥州へ逃れるしかありません。
しかし、その秀衡も程なくして病死してしまい、秀衡の後を継いだ泰衡は逡巡の末、文治5年(1189年)に義経を殺してしまいます。
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同年6月、義経の首が鎌倉へ届けられました。
首実検を行ったのは和田義盛と梶原景時。彼ら二人を含め、義経の首を見た者は皆涙したといいます。
弔い合戦を敢行するのにはもってこいの場面でしょう。
機を見るに敏な頼朝は、早速その翌月、奥州藤原氏の討伐に向かい、義盛も同行しました。
阿津賀志山の戦いで藤原泰衡・国衡が逃亡すると、追撃の先頭に立ち、国衡を討ち取ったのが義盛です。
ただ、その戦功を巡って、畠山重忠と少々揉めたようです。
『吾妻鏡』によると、最初は義盛が国衡と弓矢で勝負し、国衡が胸に矢を受けて逃げようとしたところへ畠山軍の大串重親がやってきて討ち取った……という経緯。
・一番槍(弓ですが)で首を取れる状況を作った義盛
・実際に首をとった重親
どちらの功績が大きいか?というわけです。
畠山重忠は後から報告を受けただけで、現場を見ていなかったらしく、義盛の言い分を最初は信じようとしませんでした。
しかし、頼朝の前で言い争いになったところへ、国衡が身につけていた鎧を持ってこさせると、義盛の言う通りの場所に矢で穿たれた跡がありました。
重忠は知らなかったのだから、義盛が言いがかりをつけていると勘違いしたのも無理はなく、道理に背いてはいません……というところで記述が終わっており、どちらの戦功になったのか書かれていません。
両者の間に遺恨が残ったらしき形跡がないので、おそらくは頼朝が公平に賞したのだろう……と推測するしかありません。
その後、泰衡の首が届いた際には義盛と重忠が首実検を行っています。
やはり重忠とのライバル関係がドラマでもどう描かれるか、楽しみなシーンであります。
合議制の発足と景時追放
建久元年(1190年)秋、頼朝が上洛すると、義盛にも数多くの栄誉が与えられました。
道中は先陣。
京都に到着後も、頼朝が右近衛大将任官に対する拝賀をしたときは、随行する七名の武士に選ばれています。
さらに、功績の大きかった御家人への任官が打診されたときにも、義盛の名が登場。
後白河法皇から「二十名を選ぶように」と言われたようですが、頼朝は十人にとどめました。
武家政権を確立させたい頼朝としては、朝廷の影響力をできるだけ排除したい。
しかし完全に断ってしまうのも後白河法皇や公家たちのあらぬ誤解を招き、後に対立しては面倒ですから、そこで選んだ十人というのはギリギリのバランスだったのでしょう。
翌建久二年(1191年)は、あまり義盛の動きも見られず、翌建久三年(1192年)、侍所別当の職を梶原景時と交代しています。
『吾妻鏡』では景時が騙し取ったかのように書かれていますが、さすがにこれはないでしょう。
別当という重要な職が物の貸し借りのように単純に取られてしまうというのは考えにくいですし、なにより頼朝が許すはずがありません。
おそらく景時の悪評を際立たせるための創作でしょう。
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そして正治元年(1199年)、時代が大きく動きます。
1月に源頼朝が亡くなり、同年4月にはドラマのタイトルにもなっている「十三人の合議制」が発足するのです。
文字通り有力御家人13名による政治形態であり、義盛もこの一人に選出されました。
それが以下のメンバーとなります。
【十三人の合議制】
北条時政
北条義時
安達盛長
大江広元
和田義盛
比企能員
三浦義澄
梶原景時
足立遠元
三善康信
八田知家
中原親能
二階堂行政
合議制とは言いながら、常に13名による会議や合意が行われていたわけではありません。
よって、お互いの理解不足によるトラブルも孕んでいて、それが最初に噴出したのが、同じく正治元年(1199年)10月に梶原景時が弾劾された事件です。
頼朝の死から1年も経たない内に勃発したこの一件。
経緯については以下の景時記事をご覧いただくとしまして、このとき他の御家人たちはほぼ満場一致といった様相で、景時を弾劾する署名をしました。
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そして宿老ともいえる大江広元に提出するのですが、状況悪化を懸念した広元は、しばらく手元にとどめています。
御家人たちの怒りが和らぐのを待っていたのかもしれません。
しかし「広元が弾劾状を頼家に見せていない」と知った義盛が、我慢できず将軍御所に駆け込みます。
「ばぜ弾劾状を提出しない! 景時を恐れてるのか!」
結果、広元は仕方なく源頼家に弾劾状を提出、景時に事実確認が行われたようです。
景時は何も言わずに鎌倉を去り、所領に戻りました。
そして翌正治二年(1200年)1月。
理由は不明ながら、上洛の途についた梶原一族は、駿河で地元武士と戦闘になり、景時以下全員が滅んでしまいました。
義盛は、再び侍所別当の座に就いています。
比企能員の変
少し時を進めて、次に和田義盛が歴史に大きく関わったのは建仁三年(1203年)9月2日のこと。
比企能員の変(比企氏の乱)です。
二代将軍・源頼家が危篤になったのをキッカケに、次期将軍候補の問題が勃発し、この事件へ発展しました。
なぜ、そんなことに?
当時、頼家の嫡子である一幡はまだ幼児であり、頼家のすぐ下の弟・千幡(源実朝)もまだ元服前という状態で、どちらかに決めかねる状況だったのです。
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むろん、源氏の嫡流がいるうちは、その中から次期将軍を選ぶのが筋です。
そこで頼家の外祖父である北条時政は、
「一幡に将軍職と東国の地頭職を継がせ、千幡には西国の地頭職を相続させよう」
と言い出しました。
これに真っ向から反対したのが若狭局と比企能員です。
若狭局は頼家の妻であり一幡の母であり、能員は彼女の父(頼家の舅)でした。
「一幡こそ正当な嫡流なのですから、全て一幡が相続するべきです!」
こちらもまた一幡の外祖父として発言力を行使しようとしたのです。
構図としては
頼家の外祖父・北条時政
vs
一幡の外祖父・比企能員
ですね。
天皇に娘を嫁がせ、朝廷での権力を握り続けた藤原氏みたいなもので、北条氏と比企氏はライバル関係となっていたのです。
先に動いたのが北条時政でした。
「仏事について相談があるので、我が家へお越しいただきたい」
そう言って比企能員を誘い出し、屋敷に入ろうとしたところで殺害したのです。
残された比企氏の面々は、一幡の御所に立て籠もって防戦を試みます。
しかし、彼らに逆風が吹きました。
尼御台である北条政子の名で、比企氏討伐の命が御家人たちに下されると、多くが北条方について圧倒的な兵力差となり、比企一族のほぼ全員が討死・自害してしまうのです。
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ただし、能員の妻妾たちと当時幼児だった末子の能本は許され、一時期、義盛のもとに預けられています。
こうした一連の事件が起きていたとき、病に伏せていた将軍の頼家はずっと意識がなかったようです。
そして9月5日に回復して事の経緯を知ると、当然ながら激怒。
義盛と仁田忠常に北条氏討伐を命じます。
仁田忠常は伊豆の武士で、頼家からの信頼が厚かったうちの一人ですが、同時に一幡の乳母父(後見役)でもありました。
そういう人物と共に討伐を命じられているのですから、おそらく頼家は義盛のことも相当に信頼していたのでしょう。
しかし、です。
事態は意外な方向へ動きました。
義盛は熟慮の末、頼家から渡された討伐の命令書を時政に届けるのです。
おそらくや北条氏の勢いには勝てないと考えたのでしょう。
結果、命令書を届けた堀親家と仁田忠常は、北条氏の手によって討たれてしまいました。
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堀親家はかつて、娘・大姫の婚約者だった木曽義高(木曽義仲の息子)を討伐した人でもあります。
それをきっかけに大姫が大病を患ってしまったため、政子は頼朝に
「追討を命じられたとしても、内々に大姫へ知らせるのが筋でしょう! 姫が病みついてしまったのは親家と郎党たちの不始末です!」
と迫り、頼朝は仕方なく直接手を下した郎党(藤内光澄)の首を斬った……ということがありました。
完全に言いがかりですが、こういった仕打ちを受けてもなお将軍に仕えていたのですから、親家も忠義が厚い人物だったのでしょう。
まぁ、それが裏目に出て、自らも殺されてしまったのですが……。
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ともかく、事ここに至り、権力闘争は北条氏の圧勝でした。
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残った千幡は元服して源実朝と名を改め、将軍職を継ぎました。
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まだ単独では政務をこなせない実朝に代わって、時政が単独で文書を発行するようになり、この時点で鎌倉幕府の実質的な最高権力者は北条氏になったといえます。
義盛も、おそらくは半ば諦めていたでしょう。
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