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【源行家と墨俣川の戦い】
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行家「頼朝がダメなら義仲に乗り換える( ー`дー´)キリッ 」
その後、源氏軍は熱田(現・名古屋市)まで退いて立て篭もったところも突破され、さらに東の矢作川(現・静岡県)まで撤退します。
現在の道路にして熱田から約40km。
墨俣からは約83kmほど逃げたことになります。
戦国時代に【戸次川の戦い】で完敗した仙石秀久が、豊後(大分県)から讃岐(香川県)まで逃げた――という話には敵いませんが、83kmといえばフルマラソン二回分ですから天晴れな逃げっぷりですよね。
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ここまで来るなら平家方はもっと追いこんでも良さそうなものですが、「源氏に援軍来るってよ」というウワサを聞いた平重衡は軍を撤退させました。冷静ですね。
この後、源行家は「頼朝とうまく行かないなら源義仲(木曽義仲)だ!」といって方向転換をはかります。
頼朝も困ったであろう……
しかし、源義仲へ近付いた割に、宮中で後白河法皇に拝謁する際は前後を争ったりして、残念な面が目立ちすぎる源行家。
源頼朝も「一応、叔父上だけどアレはちょっと」とか思ってたんじゃないでしょうかね……。
というか、頼朝側から見ると肉親が困ったちゃんだらけなんですよね。
末弟(源義経)は、一応功績はあるもののルール違反の自覚なし。
従兄弟(源義仲)は暴れん坊。
叔父(源行家)はネジが抜けてる上に、父(源義朝)は既に他界済みとくれば、肉親だからといって特別扱いしないのも無理はありません。
唯一の例外だった地味な弟・源範頼も、北条政子に疑われて運の尽きになってしまいました。
これじゃ嫁の実家をアテにしたくなる気持ちもわかろうというものです。
まさか北条家が息子を殺すとも思ってなかったでしょうしね。
源氏による鎌倉幕府が長持ちしなかったのは、最初の武家政権だからという他に、この辺の事情も大きいのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
墨俣川の戦い/Wikipedia