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【曾我兄弟の仇討ち】
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宴会後、寝静まったところを襲いかかり
そして建久四年(1193年)5月。
「頼朝様が富士で狩りをするってよ! 祐経のヤローもついてくるってさ!」
そんな情報を聞きつけた兄弟は「今日こそ!」と思い立って復讐に挑みます。
といっても武士の狩りは軍事訓練も兼ねており、有り体にいえば武装集団です。
そのど真ん中に飛び込むのは無謀でしかありません。
そこで二人は28日の夜まで待ちました。この日は狩りの最後で、成果を祝った宴が開かれていたのです。
遊女も呼ばれ、呑めや歌えやの大賑わい。
祐経が寝入ったところに曾我兄弟は押し入りました。
丁寧なことに、祐経を起こしてから討ったそうです。
最後の最後に「テメーが昔殺したヤツの息子だよ!」くらいのことは言われたでしょうから、さぞ恐ろしかったことでしょうね。
自業自得といえなくもないですが、ドラマではどう描かれるか見もの。
しかし事件はこれだけでは収束しませんでした。
一時は命を救おうともしたが
合戦でもないのに人を殺しておいて騒ぎにならないわけがありません。
気付いた他の御家人たちが兄弟を取り囲み、兄の祐成はその場で討たれ、弟・時致は翌日頼朝の前へ引き立てられました。
そこで彼が父の仇を取るためにやったということを説明すると、頼朝は一時罪を許そうとします。
頼朝もかつて父の源義朝を殺され、伊豆に流されて苦労をしていますので、他人事とは思えなかったのかもしれません。
源頼朝が伊豆に流され鎌倉幕府を立ち上げるまでの生涯53年とは?
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ですが、そこは初の武家政権を作った人です。
祐経の子供たちが「許せません!」と言い張ると、時致の首を刎ねることに決めました。
仇が討てれば自分の命はどうでも良かったのか。
それとも兄も既に討たれていたからか。
時致は抵抗することも、異論を唱えることもしなかったとか。
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