平頼盛

源平・鎌倉・室町

頼朝に仕えた清盛の異母弟・平頼盛~壇ノ浦後も生き残ってサバイバル

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戦地で置き去りにされ命を救われた

平頼盛にとっては、居心地の悪い日々が続きます。

多少扱いがマシになるのは、高倉天皇平清盛が相次いで亡くなってからです。

清盛の跡を継いだ平宗盛にとって、頼盛は叔父の立場。

あることないことで二人の仲を裂こうとする輩もいましたが、ギリギリのところで持ち堪えていました。

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頼盛自身は、息子の官位が、平家の若い世代で突出しないよう気を配ったり、あれこれ努力をしていたんですけどね。

その余波は源氏が平家討伐に乗り出した後も続いており、平家の主だった人物が西へ落ちて行った際、なんと頼盛は置き去りにされてしまいました。

しかし、結果的にこれが彼の命を救います。

源氏側から「一族だから一緒に行動してただけで、逆らうつもりないんでしょ? なら官位だけ返せば命まではとらないよ」(超訳)という扱いになったのです。

この辺でいよいよ覚悟が決まったのか。

頼盛は密かに源頼朝と連絡を取り、鎌倉へ向かいました。頼朝に会うときは丸腰で行き、敵意のないことを示したそうです。

それを感じ取ってか、頼朝も頼盛を父のように歓待したとか。

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もちろん感情的な理由だけではなく、頼盛が後白河法皇や八条院と懇意にしており、朝廷への連絡役として働いてくれるだろうと思ったからでしょう。

もしかしたら、かつて間接的に命を助けてくれたから――というのもあったかもしれませんね。

京都ではこれまでの混乱や飢饉等により、食糧不足が起きていたため、平頼盛は頼朝へ話し、何か対策をしてくれるよう頼んでいます。

 

鎌倉と京都を行き来して武家と朝廷を

その後の平頼盛は、頼朝の願った通り、度々、鎌倉と京都を行き来して、朝廷や法皇との連絡役を務めました。

頼朝からは餞別の品が送られるなどで厚遇される一方、京都では後白河法皇の側近達からあまりよく思われてはおらず、自ら引き下がっています。

意外にも、壇ノ浦の戦いで滅びた自分の一族のことについて、頼盛がどう感じたかということはハッキリわかっていません。

年齢のこともあってか、同じ年の5月に出家して政治の表舞台からも引退していますが、一門の供養のためだったかどうか。

出家から約一年後に亡くなっているので、あるいは頼盛自身が何か病気になっていた可能性もありますね。

享年55。

そんなわけで実に評価が難しい人なのですが、もう少しスマートな身の振り方をしていれば、「源平の間をうまく渡り歩いた人」として良い印象を持たれていたかもしれません。

忠盛の継室の息子という立場をもう少し上手に使えていれば……。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
平頼盛/Wikipedia

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