畠山重忠

悪七兵衛こと藤原景清と対峙する畠山重忠(歌川貞秀:画)/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

史実の畠山重忠が迎えた悲劇の最期とは?鎌倉殿の13人中川大志

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なお重忠は、時政の娘以前に、足立遠元の娘を娶っていて、息子の畠山重秀をもうけていたようですが、異母兄弟間の逸話は特にないようです。

「重忠は、側にいる者が足を崩せないほど真面目な人だった」という話があるくらいですので、家中の統率や兄弟の序列も厳しく言いつけていたのかもしれません。

 

鵯越で馬を背負い 巴御前と一騎打ち

源頼朝に従軍し、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍し始めた畠山重忠

木曽義仲の討伐や宇治川の戦い、一ノ谷の戦いなどで、たびたび重忠の名が登場します。

源義仲・木曽義仲・木曾義仲
なぜ木曽義仲は平家討伐に活躍したのに失脚へ追い込まれたのか?

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義仲討伐の最中には、こんなエピソードも残されています。

・宇治川を渡る途中で馬を流された大串重親を対岸に放り投げ、そのおかげで重親が徒立ちの一番乗りになった……が、他力本願だったので敵味方ともに嘲笑した

源義経らと共に後白河法皇へ御簾越しに拝謁した

・三条河原で巴御前と一騎打ちをした

巴御前は秋元才加さんが演じられ、青木崇高さん演じる夫(木曽義仲)と共に、薙刀の稽古をしている場面がドラマでも流されていましたね。

劇中で、畠山重忠vs巴御前の一戦があるかもしれません。

ただし、一ノ谷の戦いでの“エピソード”については再現が難しいでしょう。

義経らが急坂を馬で下って平家軍を混乱させた【鵯越の逆落とし】において、重忠は

馬を背負って駆け下りた

なんて逸話があるんですね。

鵯越えで馬を背負う畠山重忠/wikipediaより引用

「大事な馬に怪我させられない」とのことでしたが、現在のポニーでも約200kgの馬体重がありますので、現実的に抱えて坂を降りるのは不可能。

あくまで重忠の怪力っぷりが誇張されたのでしょう。

一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)
源平合戦の趨勢を決めた一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)とは?

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なお、日本馬は小さくて戦場では使えない――なんて指摘もあったりしますが、実際は甲冑武者を載せたまま、かなりの速度で走ることが可能です。

戦場でも大いに戦力になったに違いなく、以下に参考動画を付けておきますので、よろしければご参照ください。

 

武だけではない芸術の素養

畠山重忠が、他の坂東武者と大きく異なっていたのは「芸術の素養」も持ち合わせていたことでしょう。

源義経が兄の源頼朝と決裂し、愛妾の静御前が鎌倉へ連れてこられたときのことです。

文治二年(1186年)4月、静御前が鶴岡八幡宮の廻廊で舞を披露するのですが、このとき重忠は「銅拍子(どびょうし)」という楽器で伴奏の一手となりました。

静御前の舞を描いた錦絵・確かに畠山重忠も演奏しているがこのときの楽器は笛/国立国会図書館蔵

なぜ彼が楽器を扱えるのか?

詳細は不明ですが、この時代の坂東武者としてはかなり珍しいタイプであり、頼朝が見る目も違っていたはず。

頭脳の働きが際立つ梶原景時鎌倉武士から嫌われる一方、逆に重忠が支持を得ていたのは、器用な一面はあってもあくまで「武」が中心だったからかもしれません。

もちろん重忠のように非の打ち所がない武士であっても、時代の過渡期ですから、順風満帆とはいきません。

土地や権利などを巡る問題は、たびたび見舞われました。

そのうちひとつが、彼の性分や御家人同士の関係をよく表しています。

時は文治三年(1187年)。平家が滅び、まだ鎌倉幕府ができたばかりの頃です。

このとき地頭を務めていた伊勢国沼田御厨で、代官が狼藉を働き、その責任を重忠が負うことになりました。

重忠は千葉胤正のもとに預けられました。

こういった処罰のやり方は度々ありましたが、いわば生き恥とも言える刑罰であり、誇り高き重忠は絶食して自ら命を断とうとします。

報告を受けた頼朝は、重忠の才覚を惜しんで赦免を決定。

これにて一件落着かと思われたところで、再び梶原景時が出てきます。

梶原景時
なぜ梶原景時は御家人仲間に嫌われた?頭脳派武士が迎えた悲痛な最期

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重忠が一族とともに地元・武蔵へ戻ったことを「謀反の疑いあり」と勘違いし、それを頼朝へ報告してしまったのです。

 

私は起請文を出す必要はない!

源頼朝は、御家人たちを集めて意見を募りました。

すると小山朝政が重忠を弁護し、他の者もそれに同意。おそらく、頼朝もそのように考えていたのでしょう。

すぐには兵を動かさず、小山市の一門でもある下河辺行平が、畠山重忠への使者に立ちました。

しかし重忠のような武士にとっては「謀反を疑われた」という時点で不名誉なことです。

怒り悲しんで自害しようとしていたところを行平がどうにか止め、

「ここで自害するより、鎌倉できちんと申し開きをしたほうが良いでしょう」

と説得したため、重忠は思い直して鎌倉へやってきました。

不思議なのは、ここで取調べをしたのが梶原景時だったこと。

そもそも重忠を謀反疑惑を頼朝に訴えた人物ですから、重忠の態度も頑なになってしまいます。

景時は、重忠にこう告げました。

「異心がないのならば起請文を差し出されよ」

「自分には他意がなく、言葉と心に相違がないから、起請文を出す必要はない!」

こうなると完全に平行線。

景時も、これ以上のゴリ押しは得策ではないと考えたのか、その場では多くを語らず、頼朝へ報告しました。

すると……。

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