赤松満祐

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なぜ赤松満祐は嘉吉の乱後に討たれた?将軍暗殺に成功しながら滅亡へ

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山名がなかなか動かん! それどころか略奪しよる!

追討軍は

・山陽道側が細川持常

・山陰道側は山名持豊

を大将とすることに決まりました。

嘉吉の乱・進軍経路/map by 味っ子 wikipediaより引用

が、持豊がなかなか重い腰を上げません。

しかもその間に、山名軍の兵士が京の土倉・質屋を襲って略奪を働いています。たぶん日頃から借金のあった兵が、徴発を名目として手荒なことをしたのでしょう。

さすがにこれはまずい。

管領・細川持之が「アンタの部下が町を荒らしたって聞いたけど、監督どうなってんだ!」(※イメージです)と苦情を送っています。

持豊は、それでもすぐには対応せず、持之に「この際、アンタの家もまとめて討ってやろうか!」とブチ切れられて、ようやく数日後に謝罪しました。

ちなみに、持豊が京を出発したのは7月28日です。

先行していた一族の山名教清や細川持常らは真面目に進軍していたのに、持豊が動かないせいで予定がずれ込んでいます。

そうやって対応が遅いから「実は持豊もグルだったんじゃないか」とか言われるんやで(´・ω・`)

一方、討たれる側の満祐は幕府に対抗するための“神輿”を掘り出してきていました。

足利直冬(足利尊氏の庶子で足利直義の養子/観応の擾乱で直義方についていた人)の孫・足利義尊を探し出し、新たな将軍候補に担ぎ上げたのです。

たぶん満祐は、本当に義教憎さで事に及んだのでしょう。

でなければ、先に担ぎ上げる人物を決めていたはず。

 

朝廷に綸旨を認められ幕府が大義名分をゲット

討伐軍が西へ向かっている間、足利持之は後花園天皇へ赤松氏征伐の治罰綸旨を求め、認められています。

これが認められれば、名実ともに赤松氏は朝敵。幕府側が大義名分を得ることができます。

公家の中には以下のような理由で、綸旨を与えることに反対する者もいたようです。

「そうはいっても、義教はやりすぎだったから自業自得じゃないか」

「この場合、赤松氏は朝敵とまではいえない。武家の私闘に綸旨は無用」

最終的には後花園天皇が綸旨を出すことを認めたため、さほど抑止にはならなかったのでしょうね。

藤原北家の血を引く正親町三条実雅が被害者の一人だったことも、理由のひとつなのかもしれません。もしも義教暗殺の場に公家が一人もいなかったとしたら、朝廷にとっては完全に他人事ですから。

また、この裏で村上源氏の久我清通が「源氏長者」の地位を得るべく策動していました。

源氏長者はその名の通り、公家・武家を問わず本姓を源氏とする者の中で一番官位が高い人のことで、源氏全体の長としてさまざまな祭祀や裁判などの権利を持ちます。

足利義満がこれを受けて以来、ずっと足利家が源氏長者の地位を世襲していたのです。

公家の源氏からすると「あんな野蛮な奴らに長者の地位を渡しっぱなしでいられるか!」となるわけです。公家は特にそういうの大事にしますからね。

念願叶って、赤松氏の討伐が終わった後、この年の11月2日に清通は源氏長者になります。

ただし、その後しばらくして足利義政が源氏長者になるので、あまり変わりませんでした。残念……。

 

北畠を頼って断られ、伊勢で自害

さて、8月半ばに赤松氏討伐軍は足並みをそろえられるようになり、満祐らを半月程度で追い詰めて切腹させ、乱は割とあっさり収束しました。

満祐の首は、義教の遺児に見せられた後、四条河原で晒されています。

遺児とは、おそらく

・足利義勝
・足利政知
・足利義政

でしょう。足利義視はこの時点で二歳なので、見たとしても覚えていないと思われます。

足利義政
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また、満祐の嫡子・赤松教康は、城を脱出して伊勢の北畠教具(のりとも)を頼りましたが、最終的には拒否されて伊勢で自害。

教康の首級も京都に送られ、幕府によって赤松氏の屋敷跡で晒されました。

もっと早く動けば、さらに早く片付いたんじゃないかと思うのですが、自信があったから山名持豊もノンビリしてたんですかね。

こうして【播磨・美作・備前】の守護だった赤松氏は潰滅状態になり、戦後、一番美味しいところを持っていったのが持豊を含めた山名氏でした。

赤松氏の旧領はほとんど山名氏に与えられています。

具体的には、持豊に播磨、山名教清に美作、山名教之に備前の守護職が任され、力が強まりました。

後世からみれば、嘉吉の乱は「トップを殺しただけで天下は取れない」という典型例ともいえましょう。

満祐は義教を殺せれば良いと思っていたフシがあるので、天下を意識していたかどうかは怪しいところですが。

その点、三好勢による十三代将軍・足利義輝の暗殺事件【永禄の変】や、信長と光秀でお馴染み【本能寺の変】などと比較するのもまた面白いところです。

ほぼ同じことをやっているのに、その後の展開がまるで違いますからね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「嘉吉の乱」
日本史史料研究会/平野明夫『室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)』(→amazon
嘉吉の乱/wikipedia(→link

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