大庭景親

大庭景親が石橋山の戦いで敗走に追い込んだ源頼朝/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

大庭景親は相模一の大物武士!一度は撃破した頼朝に敗北した理由とは

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以仁王挙兵後、源頼朝も起つ

石橋山の戦いを全体で把握するのに大切なのは、平清盛も含めた動向です。

少し時間を戻して治承4年(1180年)の清盛を見ながら進めさせていただきます。

同年5月、以仁王が源頼政を頼って挙兵すると、清盛はこれをあっさり鎮圧。

しかし、わずかながらに疑念を感じたのでしょう。

その目を坂東へ向けます。

不穏な摂津源氏がいれば捕縛するよう、大庭景親に対して命令を下したのです。

そのため源頼政の嫡孫・源有綱藤原秀衡を頼って奥州へ落ち、ひとまず以仁王に呼応した坂東の源氏とは連絡を絶ったと見なされました。

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平家にとって問題となるのは、その後です。

最終的に清盛の目は、以仁王に呼応した京都周辺の勢力へ向けられました。

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、清盛が頼朝を忘れていて、「つまらんこと」とみなす場面がありました。

史実においては、まるで忘れていたかどうかはさておき、坂東の情勢など優先度で劣る相手と見なされたのでしょう。

ここで情報が錯綜し始めます。

吾妻鏡』によると、京都の情勢を源頼朝に伝えていた三善康信が、弟・康清をわざわざ伊豆に派遣しました。

そしてこう伝えたのです。

「以仁王の令旨を受け取った源氏は追討されますえ!」

当時の京都の人々にとって、頼朝など忘れられていました。ゆえに追討などなかったのですが、三浦康信が先走ったため歴史が動いたのです。

やられる前にやるしかない――。

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そう思い詰めた源頼朝は挙兵し、まずは山木兼隆を夜襲で討ち取りました。

不意打ちではあったものの、こうした不穏な気配を大庭景親が察知してもおかしくはありません。それは頼朝にとって手痛い失敗とも言えました。

 

石橋山の戦いで大勝利を収めたのは

挙兵した源頼朝は、熱海街道を越えて相模入りを目指します。

なんとしてもこれを阻まねばならない――大庭景親は相模・武蔵から3,000騎を募り、立ちはだかります。伊豆からも伊東祐親300騎が合流すべく向かっていました。

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対する頼朝サイドの相模武士は、三浦義澄率いる軍勢がわずか300騎。しかも三浦勢は、酒匂川の増水に行く手を阻まれてしまいます。

結果は、火を見るより明らか。

頼朝と三浦党の合流を阻むべく、大庭景親が夜襲をかけた石橋山の戦いは、頼朝の大敗北となりました。

北条時政の嫡男である北条宗時もこの戦いで討死してしまいます。

ドラマでは片岡愛之助さんが演じる、熱血武士でしたね。

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当然ながら大庭景親はここで追撃の手を緩めません。

数千騎を率い、三浦氏の衣笠城へ進撃します。

しかし三浦義澄らはすでに安房へ渡海していて空振りに終わり、景親は引き返しました。

坂東での合戦など“小競り合い”程度の認識だったのでしょうか。石橋山の戦いの一報を受けた京都では、これで片がついたと考えたようです。

ところが、です。

石橋山合戦の前後から、相模武士団が頼朝になびき始めました。

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甲斐に頼朝と北条時政らが逃げたと聞き、俣野景久が追撃したため、これに刺激されて反平家の立場を取った甲斐源氏の武田信義や安田義久など。

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京都にいる平清盛が預かり知らぬところで、坂東では反清盛の勢力が燃え上がっていたのです。

 

もはやこれまで! 投降し処刑される

相模における重鎮だった大庭景親や伊東祐親は、あれよあれよという間に圧倒的な優勢を失いつつありました。

もはや勝機は、西から来る軍勢=頼朝追討使との合流しかありません。

治承4年(1180年)10月、景親は1,000騎を率いて出立。

しかし各地の源氏を吸収し、勢力を拡大した頼朝の元には20万の精兵がいました。

もちろん20万という数字は盛られた記録であり、実数は不明ですが、大軍には違いありません。

そんな軍勢が足柄を越えてきたため、もはや景親らは逃げるしかありません。

さらには富士川の戦いにおいて、源頼朝・武田信義と対峙した平維盛が壊滅し、敗走していました。

富士川の戦いは「水鳥が飛び立つ音に驚いた平家が逃げ惑った」という話で知られますが、実際は武田信義率いる軍勢が鮮やかに勝利したため、そういった伝承になっている可能性が高そうです。

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いずれにせよ敗走となった大庭景親は、もはやこれまでと観念。

自ら投降を選び、斬首刑とされたのでした。

ここまで一気に話が進みましたので、あらためて時系列を振り返ってみましょう。

石橋山にて大庭景親が源頼朝を粉砕したのが、治承4年8月23日(1180年9月14日)のこと。

その後、大庭景親が敗れたのが治承4年10月20日(1180年11月9日)で、景親の処刑は治承4年10月26日(1180年11月15日)に行われています。

わずか2ヶ月の間に一気に勢力が入れ替わった治承4年の秋――あまりにめまぐるしい季節であり、怒涛のように押し寄せる波にさらわれたような大庭景親の最期でした。

景親の命運を定めた岐路はありました。

まさか石橋山の戦いで梶原景時が源頼朝を見逃すとは!

まさか甲斐源氏が立ち上がるとは!

そしてまさか、京都がこうも坂東を甘く見ていたとは……。

急激に変化する状況は、なにも大庭景親一人の責任でもなく、相模国が反平家の火薬庫だったということでもあるのでしょう。

大庭景親亡きあと、相模の武士団は、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、土肥実平らが率いてゆきます。

山内首藤経俊処刑は母の嘆願によって止められ、彼もまた、頼朝と共に進んでゆくこととなるのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

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【参考文献】
関幸彦『相模武士団』(→amazon
佐藤和彦/谷口榮『吾妻鏡事典』(→amazon

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