守護地頭

笠懸を描いた一枚/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

守護地頭を頼朝が設置した切実な理由~実際どんな仕事をしていた?

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最初は「平家討伐が完了まで」の期限付

守護と地頭について、何となくイメージできたでしょうか?

次に、設置までの流れを確認します。

源頼朝が、平家討伐の兵を挙げ、紆余曲折を経て鎌倉に入ったとき、家臣の進言によってまず関東の地固めに取り掛かりました。

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守護も地頭も、そのために生み出された役職です。

前述の通り、文治元年(1185年)に勅許を得た「文治の勅許」が最初で、守護は当初「惣追捕使」と呼ばれ、平家追討の一翼を担っておりました。

※このとき「国地頭」と言って、あたかも守護のような仕事をする役職も一時的に設置されました(通常の地頭とは全く異なります)

地頭は、元々荘官(荘園の現地責任者)などをしていた武士に、改めてその土地の支配権や、地元武士の動員権などを与えたものです。

地縁的な繋がりは圧倒的に地頭が強いんですね。

というか、地縁そのもので、戦国時代でイメージすれば、信濃の一部で勢力を張っていた真田幸村(真田信繁)。

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あるいは遠江で今川の傘下にありながら土地を有していた井伊直虎など。

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そういった国衆(地侍)がイメージに近いかもしれません。

元暦元年(1184年)、源氏軍が平家討伐のため本格的に西上すると、頼朝は「平家の残党狩り等のため」に、西国にもこれらの役職を置くことを後白河法皇に奏上しました。

いかにもゴタゴタして断られそうな案件ですが「平家討伐が完了するまで」という前提で許可が出ます。

その後、源範頼源義経らによって平家討伐が成功。

各地に残る落人伝説などからして、平家の残党は多かったようで。彼らの追っ手となったのがおそらく惣追捕使だったのでしょう。

 


頼朝も最初は素直に引き下げる

このような流れがあったため、平家討伐が終わると、後白河法皇などは

「もう惣追捕使とか地頭とかいらないよね? 廃止してくれない?」(※イメージです)

と思っていたようです。

そりゃあ皇族や貴族、寺院など、既存の荘園領主からすれば、

「頼朝だかなんだか知らんけど、ウチらに来る年貢が減ってんじゃーん! そもそも戦の間だけの役職だったでしょ? 早く出てって!」(超訳)

としか思えないですしね。

当たり前といえば当たり前のことです。

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その空気を読んだのか。

頼朝のほうから

「そろそろ落ち着いてきたんで一時停止します」(意訳)

と申し出ました。

あまり朝廷の機嫌を損ね続けていると、ちょっとしたヘマをきっかけに自分が討伐されかねません。

おそらく頼朝は、その辺のバランスを考えて自ら言い出したのでしょう。

実際に、これらの機能は一時停止されました。

 


北条氏一門の独占が自分たちの首を締める

その後、義経追捕などを挟み、建久二年(1191年)、守護・地頭として改めて制度を作ることが許されます。

この前年11月、後白河法皇と頼朝は何度も直接対面して話し合っていたので、この件についても話がまとまっていたのでしょう。

頼朝も法皇の協力に感謝してか、法住寺殿の修繕に家臣を遣わすなどしています。

とはいえ、やはり朝廷の勢力が強い近畿以西では、しばらくの間、荘園領主の支配力が強く残りました。

守護や地頭の地位が安定するようになったのは、【承久の乱】で幕府軍が勝利を収めてからです。

後鳥羽上皇らが流刑になったため、皇族や公家などの荘園領主は勢力を弱めることになります。

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そして鎌倉幕府によって各地へ御家人が派遣され、守護や地頭が実質的な領主となっていったのです。

ただし、守護はアッチコッチに転任させられることも多く、地元に根付くことは稀でした。

当時は、源氏の血が絶えたり、北条氏によるアレコレで幕府自体が安定してなかったので、仕方ありませんね。

むしろ、守護が定住して力を蓄えることを防ぐ目的だった……という可能性もありそうです。

はるか後年の徳川家康も、関が原の戦いが終わった後、西軍に所属した大名の領地を取り上げると同時に、東軍の中で豊臣家に近かった大名を地元から引き離していたりしますし。

さらに時代が下り、北条氏による専制が進むに従って、守護は【北条氏一門の独占】状態となっていきます。

鎌倉幕府が倒れたのは

元寇に対する恩賞がなかったことと、それに関連する借金の倍増」

というのが最大の理由です。

同時に

「北条氏による守護独占も、各地の地頭や御家人たちの不満の種」

となっていたのが大きいでしょう。

元寇の際は守護が各国の兵を動員していましたし、討幕のときも同じだったようですしね。

ところで、守護といえば室町・戦国時代の「守護大名」を連想する方もいらっしゃるかもしれません。

ついでに、こちらについても少しだけ見てみましょう。

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