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【北条貞時】
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彗星の観測を機にアッサリ隠居
徳政令を機に、ほとんどの貸し手が御家人に貸し渋るようになりました。
この辺、皆さんも歴史の授業で習ったと思います。貸し渋りによって御家人は生活費を借りることもできなくなり、余計に苦しむようになったのです。
というか御家人が再び手に戻した所領は、幕府の決まりによって、もう二度と売れなくなります。
なんて書くと、いかにも幕府が優しさから御家人を守っているように見えますが、実際のところはむしろ逆。御家人を戦争で働かせるためです。
基本的に幕府が戦地へ動員できる武士は「御恩と奉公」の契約を結んだ御家人です。
それ以外にも武士は大勢おりましたが、原則的に幕府の下にはおりません。
いつも言うことを聞く義務はないし、幕府も面倒を見る必要がない。
しかし、元寇はいつまたやってくるかわからない。普段から九州での警備兵が必要です。
そのとき御家人が少ないと困るから、無理にでも土地を戻して武士としての装備を整えさせ、馬を持たせ、蒙古の襲来に備えたんですね。
そして正安三年(1301年)。
凶兆とされていた彗星が観測されたのをキッカケに、貞時は隠居してしまいます。執権職は従兄弟かつ娘婿でもある北条師時(もろとき)に譲りました。
が、例によってこれは形式上の話で、実権は失っていません。
執権でなくなっても、北条宗家の当主であれば「得宗」には違いありませんからね。相変わらず、オレ、TOP!というワケです。
ただし連署は、北条宣時から北条時村に交代しまして。これが後の騒動の発端になります。
嘉元三年(1305年)、貞時の邸が焼けてしまい、師時の邸に移っていたことがありました。
その翌日、内管領(御内人のトップ)である北条宗方が「貞時の命令」という名目で、連署の北条時村をブッコロしてしまったのです。
『北条貞時もブッコロして執権職をもぎ取ろう!』と考えていたという説もあります。
貞時は直ちに
「そんな命令出してないんですけど!」(※イメージです)
と軍を出し、宗方とその与党を誅殺しました。
これを【嘉元の乱】といいます。
にしても……「気に入らないからとりあえずブッコロス!」って、止めなさいってば(´・ω・`)
息子・高時のために円喜と時顕を登用する
延慶元年(1308年)、将軍・久明親王が例によって京に送り返され、その息子である守邦親王が九代将軍となりました。
久明親王は和歌に専念、政治的な活動はほとんどしません。そのため京都に帰った後も、幕府とは比較的良好な関係だったようです。
その辺に気が咎めたのか、それとも世代交代を意識したのか、貞時は幼い息子・高時(1303年生まれ)の将来を心配したかのような行動を取り始めます。
まず、高時の後ろ盾として、御内人・長崎円喜(ながさき えんき)と、御家人・安達時顕(あだち ときあき)を登用しました。
長崎円喜は平清盛の孫・資盛の血を引くとされ、先祖代々北条氏に仕えた長崎氏の人です。
所領が伊豆国田方郡長崎郷(現・静岡県伊豆の国市)だったことから、「長崎」を称するようになったとか。
彼は鎌倉幕府が新田義貞に滅ぼされるまで、北条氏に仕え続けています。
新田義貞が鎌倉幕府を倒しながら 後醍醐天皇に翻弄され 悲運の最期を迎えるまで
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やったことは綺麗とは言いがたいのですが、忠誠心はあったといえるでしょう。
一方、安達時顕(ときあき)は、その名の通り安達氏の一員で、霜月騒動のときはまだ幼かったため、乳母に抱かれて逃げていたのだそうです。
そして北条時村(七代執権・北条政村の息子)に庇護されて成長し、貞時に抜擢されました。
こうして脇を固めつつ、延慶二年(1309年)1月には、高時の元服式を行います。
貞時が元服したとき同様、満6歳でのこと。
しかし、こうした折角の下準備も、貞時自身の行動によってほとんどダメになってしまうのです。
酒におぼれ政務もおろそかに……
何がキッカケだったのか?
晩年の貞時は酒に溺れ、政務を疎かにするようになりました。
親戚から書面で諌められても、ドコ吹く風。
若い頃にそういう話がないため、よほどのことがあったのは間違いないのですが……このあたりで幼い下の息子たちが立て続けに亡くなっているからかもしれません。
貞時がサボっていても、一応、幕府の機能は働いておりました。
長崎氏をはじめとした御内人や、外戚の安達氏、他の北条一門が主導する「寄合」が仕事をしていたのです。
しかし、このことは「得宗専制には大した意味も効果もない」ということを証明することになってしまいまして。
貞時はそこに気付いていたのか、いなかったのか。判然としないまま、応長元年(1311年)に世を去ります。
亡くなる間際にも、円喜と時顕に息子の補佐を命じていたという話があり、なんとなく危機感は持っていたのでしょう。
お気づきになった方もおられるでしょうか。
鎌倉幕府が滅亡したのは1333年のこと。つまり、貞時の死からわずか22年後に当たります。
そして、貞時の息子である高時は、1303年生まれ。幕府が滅びたときにはちょうど30歳になります。
そう、貞時の次の世代こそ、幕府滅亡の当事者たちなのです。
いよいよ鎌倉時代が終わり、さらにややこしい時代へ移って参ります。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典「北条貞時」
呉座勇一『戦争の日本中世史―「下剋上」は本当にあったのか―(新潮選書)』(→amazon)
北条貞時/Wikipedia
【歴代の鎌倉将軍・執権リスト】
①源頼朝(1192-1199年)
②源頼家(1202-1203年)
③源実朝(1203-1219年)
④藤原頼経(1226-1244年)
⑤藤原頼嗣(1244-1252年)
⑥宗尊親王(1252-1266年)
⑦惟康親王(1266-1289年)
⑧久明親王(1289-1308年)
⑨守邦親王(1308-1333年)
①北条時政(1203-1205年)
②北条義時(1205-1224年)北条家の地位確立
③北条泰時(1224-1242年)
④北条経時(1242-1246年)
⑤北条時頼(1246-1256年)
⑥北条長時(1256-1264年)
⑦北条政村(1264-1268年)
⑧北条時宗(1268-1284年)父
⑨北条貞時(1284-1301年)←今日の主役
⑩北条師時(1301-1311年)
⑪北条宗宣(1311-1312年)
⑫北条煕時(1312-1315年)
⑬北条基時(1315-1316年)
⑭北条高時(1316-1326年)
⑮北条貞顕(1326-1326年)
⑯北条守時(1326-1333年)
※( )内は在職期間です