北条貞時

北条貞時/wikipediaより引用

源平・鎌倉・室町

北条貞時と永仁の徳政令~戦乱で凹んだ御家人を借金チャラで救えるか

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
北条貞時
をクリックお願いします。

 


調子に乗る頼綱、権力乱用が目立つように

霜月騒動に勝利しただけあって、その後しばらくは頼綱が実権を握りました。

しかし、いくらお飾りとはいえ将軍である惟康親王をないがしろにしたり、そもそも頼綱は御家人ではなく御内人(北条氏に仕える武士)だったことから、あまり評判はよろしくありません。

特に、泰盛派だった宇都宮景綱などの有力御家人に睨まれます。

それでも調子に乗って空気を読めなかった、あるいは読まなかったのでしょうか。

頼綱は次第に貞時の花押なしで書類の決裁を行ったり、息子たちに高い官位をもらうなど、権力乱用が目立つようになります。

京都の公家が日記に書き留めるほどですから、よほどのことだったのでしょう。

たぶん六波羅探題とか篝屋(かがりや・京都にあった武士の詰め所みたいなもの)あたりから話が漏れたんでしょうね。

頼綱が実権を強めていた正応二年(1289年)には、将軍・惟康親王が京に返され、後深草上皇の皇子である久明親王が新たな将軍に立てられています。

惟康親王は閉め出されるような形で鎌倉を追われたらしいので、頼綱に対する恨みや悪評を多少誇張して伝えた可能性もあります。

しかし、それも長くは続きませんでした。

永仁元年(1293年)、23歳になった北条貞時が頼綱を滅ぼすのです。配下とはいえ、さすがにヤリ過ぎたのでしょう。

これを【平禅門の乱】といいます。

ちなみに「鎌倉大地震の混乱に乗じて頼綱の屋敷を襲撃する」という、割とエゲツない方法でした。

鎌倉大地震は4月12日。

それから10日後、4月22日に平禅門の乱は起きています。

地震の規模はマグニチュード7.0以上で、建造物倒壊、土砂崩れなどで2万3000人ほどの死者行方不明者というまさに大震災でした。

おそらくや北条氏とか御家人の中にも被害者は多かったはずで、そんな状況下に貞時もよく兵を出せたものです。

それほど御家人たちの恨みが募っていたか、このチャンスを逃せないと覚悟したか。あるいはその両方か。

頼綱の邸が、鎌倉の南方にあったこともポイントしれません。

同エリアにあった寺社の被害が伝えられているので、「頼綱邸もおそらく崩れている!」と伝わり、「今こそ好機!」となった……てのも、ありえそうですね。

 


得宗専制政治が始まり、結果、反感を買い

ともかく、この一件でようやく実権を確実なものとした北条貞時。

霜月騒動で処分された金沢顕時らを復帰させると、一門の人間も数多く抜擢しました。

そして北条一門をはじめとした御内人と、御家人の統制を強め、自身の権力を保とうとします。

貞時が実権を掌握してからが一般に【得宗専制政治】と呼ばれている時代です。

得宗とは、北条氏の本家の当主のことを指す単語です。

なぜ「専制」なんて言葉が付随するのかというと、五代執権・北条時頼の時代に置かれた「引付衆」を廃止してしまおうとしたからでして。

引付衆は裁判を迅速・公正に行うために作られた役職でしたから、これを廃止するということは、

「これからの裁判は、俺が好きなように判決出すから!」

と宣言しているも同然でした。

それが失敗だったのかもしれません。

執権職は多忙を極めます。次第に裁判が滞り始め、貞時の評判にも傷がつき始めてしまいました。

そのため引付衆が廃止されたのはほんの僅かな間のことで、すぐに元の体制に戻り、貞時の評判だけが悪化したままとなってしまいます。

そんな状態で、貞時はまた、強引なことを取り決めてしまいます。

評定衆の会議ではなく、得宗および特定少数の北条氏一門・御内人らからなる「寄合衆」の会議で重大次項を決めることにしたのです。

現代風に言うと「株主会議や社内会議ではなく、経営者一族の会議で会社の方針をすべて決めてしまう」ようなものでしょうか。

いかにも反感を買いそうで、なぜに気づかなかった……(´・ω・`)

 


鎮西探題を設置し西国強化

御本人の名誉のために言っておきますと、一応、他の仕事もシッカリ取り組んでいます。

薩摩沖に現れた元のものと思しき船への警戒を強めるため、永仁四年(1296年)に【鎮西探題】を設置したり、北条一族に西国の守護をさせました。

西国支配と国防の強化を兼ねた一石二鳥の方針です。

が、これまた地方武士からすると面白くないんですね。

だって、いきなりよくわからんヤツがやってきて、

「今日から俺がここの主だからヨロシク^^ え? 不満? 俺、北条氏の一員なんだけど? やんの?^^」

ってなれば、そりゃ誰だって腹が立ちますよね。

一方で、締め付けるばかりでなく、御家人救済のためのこともいくらかはしているのですが……結果が……うん、その……。

例えば、元寇の恩賞を少しでも与えるため「御家人」の定義を緩めました。

曽祖父母の代に幕府から下文(くだしぶみ)という公文書をもらったことがあれば、その家を御家人として認めることにしました。

当初は祖父母の代が対象でしたので、一代広げて恩賞を与えやすくしたのですね。

 

借金チャラ! って貞時も必死だろうけど

こうした懐柔策は、なかなか押し引きの上手な印象がありますよね。

しかし、その後、大ポカをやらかしまいます。

悪名高き【永仁五年の徳政令】です。

借金チャラ法で有名なアレ。江戸時代生類憐れみの令と並んで「悪法の代名詞」みたいな印象がありますよね。

※生類憐れみの令は、最近、かなり再評価されていますが……

生類憐れみの令
生類憐れみの令は日本人に必要だった?倫理観を正した“悪法”に新たな評価で考察

続きを見る

徳政令も、本来は御家人のためにしたことです。貞時としても必死だったのでしょう。

問題は、御家人だけのことしか考えていなかったこと。

一応、順を追って説明させていただきますと……。

御家人たちの多くは、土地を担保にお金を借り、元寇の戦費に充てました。もちろん恩賞を貰えると思ったからです。

「戦費<恩賞」と考えたからこそですね。

しかし、無事に合戦が終わると、与えられる恩賞の余裕はなく、お金の返済だけが残り、結果、土地を取られてしまいます。

そこで出された徳政令というのがこんな感じでした。

・20年以内の借金だったら、土地を返しなさいよ。もちろん、借金はチャラ!

・御家人にお金を貸していたのが一般人だったら、20年より前でも土地を返せよ、借金もチャラじゃい!!

いくらなんでも、貸し手のことを考えなさ過ぎですよね。

そしてその弊害はスグに出てきます。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-源平・鎌倉・室町
-

×