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【南都焼討と平重衡】
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平家に仏罰は下されたのか?
こんなことをしたのであれば、仏罰がくだされるであろう!
当時の人々がそう思わないわけがありません。
歳が明けて間もない2月4日、平清盛は尋常ではない高熱にうかされ、急死しました。
すかさず、
・平家に仏罰があたった
・南都焼討の祟りだ
と喧伝されました。
清盛が高熱に苦しむ様は『平家物語』でも、なかなかこっ酷く描かれるほどで、その描写を少し見てみましょう。
・病室までもが熱気に満ちてしまう
・あまりに苦しむから清盛を水風呂に入れた
・たちどころに水が沸騰し、蒸発してしまう!
こうした激しい描写は、南都焼討に対する因果応報論が込められてのことでしょう。
むろん、当時の日記でも高熱にうなされ亡くなったとありますので、熱病関連による死去であることは間違いなさそうです。
となれば、実行犯である清盛の四男・平重衡も、惨い目に遭いますよね?
しかし……。
墨俣川の戦い
重衡は父の喪に服する暇もなく、大将軍として【墨俣川の戦い】に向かいました。
ここにやってきた源氏は、源行家と義円の両名。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも簡潔に描かれていましたが、平重衡は仏罰に遭うどころか、源行家・義円らに完勝しています。
義円が仏僧であることを踏まえると、祟りも当てにならないものです。まぁ、それも現代から見れば当たり前ですが。
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しかし、視野を広くもってみると、その後は平家に仏罰がくだされたような展開です。
反撃もここまでで、寿永2年(1183年)5月には【倶利伽羅峠の戦い】において、平維盛の軍が源義仲(木曽義仲)に大敗を喫します。
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結果、平家は京都を放棄せざるを得なく、さらに迎えた寿永3年(1184年)の【一ノ谷の合戦】で、平重衡は源氏方に捕縛されてしまいます。
鎌倉にまで引き渡された重衡は、その高潔な人柄により、敵にまで感銘を与えました。
北条政子の女房であった千手の前は、宴席で重衡をもてなし、二人は恋仲になるほど。
しかし、南都の僧侶からすれば、重衡は憎むべき仏敵にほかなりません。
平家が滅亡した元暦2年(1185年)6月、斬首されます。
享年27。
重衡の死後、千手の前は衰弱死したとも、出家したとも伝わります。重衡とはそんな悲恋伝説ができるほど、愛された人物であったのでした。
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