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【南都焼討と平重衡】
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焼け落ちた寺社仏閣を再建せよ
焼け落ちた寺社仏閣は、復興せねばなりません。
朝廷は寺への弾圧を停止し、新たな仏教が芽吹きます。
この破壊により、平安から鎌倉へ、建築や彫刻に新風が吹き込まれた一面もあります。
そしてこの東大寺大仏殿再建築には、源氏と縁深いある南宋人が参加しました。
重源の依頼を受けた陳和卿(ちんなけい)です。
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建久6年(1195年)に東大寺が再建され、供養式典が開かれました。
ここで頼朝は、陳和卿への面会を申し込みをしています。
しかし陳和卿は、頼朝が源平合戦で血を流したことから、それを断った。
頼朝はなおも感銘を受け、陳和卿にさまざまな贈り物をするものの、陳は建築造営や寺社寄進に用いたもの以外は返却という冷淡な対応です。
ところが建保4年(1216年)――。
陳和卿が、なんと自分から頼朝の子である源実朝に面会を申し込んできました。
さらには実朝の顔を見るなり、感動のあまり泣き出したのです。なんでも実朝が、宋にいた高僧の生まれ変わりであるとか。
その真偽はさておき、実朝は、宋へ渡るべく「唐船」(※からふね・遠距離航海ができる船)を作らせました。
文弱であった実朝の現実逃避のように語られますが、それは後付けの面が大きい。
大型船舶の建造は、当然のことながら日宋貿易への意識があったのです。彼には、西日本を経由せず、鎌倉から出立させたいという、大望があった。
甥の公暁に暗殺されたことばかりがクローズアップされがちですが、実朝にはかつての清盛のような意志があったのです。
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しかし、この試みは、由比浦が遠浅であったことから、進水時に失敗していまいました。
なんだか不吉なように思われがちですが、原因は時間と準備不足であり、実朝の先見の明までは否定できません。
追い詰められた平家の失敗から、源氏はさまざまな学びを得ていました。
大仏殿を再建し、仏敵ではないことをアピールする。
宗教勢力と融和をはかる。
そして、その過程で得た知見をもとに、日宋貿易まで視野に入れていた。
南都焼討のあとも、京都奈良には寺社仏閣が建立され、宗教の中心となりました。
のみならず、焼けたあとから種が関東まで飛び、鎌倉に花開いたようにも思えるのです。
人類は古今東西、文化宗教を破壊してきた
大河ドラマで扱う舞台は、文化や宗教の破壊がなされた時代であることが多いものです。
視聴者に人気の戦国時代ともなれば、寺社焼討ちや一向一揆勢との激闘がしばしば繰り広げられました。
幕末から明治にかけても、水戸藩での寺社仏閣破壊に端を発した【廃仏毀釈】が猛威を震っていますし、南北に目をやれば、アイヌや琉球の宗教が否定されてきた歴史もあります。
もう当たり前すぎて、感覚が麻痺してしまうかもしれませんが、その意義を見つめ直す機会かもしれません。
こうした文化宗教の破壊は、何も日本固有の現象でもなく、古今東西、どの文明圏でもあった悲劇といえます。
消えていったものが壮麗で、大切であったからこそ、人類は語り継ぎ、再建に力を尽くしてきたとも言えるかもしれません。
人間社会の未来が、人類の知性に依るものであるならば、破壊への嘆きと共に再建の重要性も記憶してゆきたいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田豊彦/関幸彦『源平合戦事典』(→amazon)
坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』(→amazon)
細川重男『論考 日本中世史』(→amazon)
ロバート・べヴァン/駒木令『なぜ人類は戦争で文化破壊を繰り返すのか』(→amazon)
他